執権になるまで
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延慶2年(1309年)1月21日、北条高時の元服式で御剣役(元服する者の傍で御剣を侍して控える役)を務めた。この役は北条一門の中でも要人が務めることが常であったため、貞顕は北条一門の中で重要な人物と見られていたことがわかる。その後、3月には引付頭人3番に任命されたが、六波羅探題を辞任して鎌倉に帰還して3ヶ月ほどの貞顕が引付3番であることや兄の甘縄顕実(7番)より上位にあることは貞顕が北条一門の中でも特別待遇の地位にあったことを物語っている。4月9日には北条煕時と共に寄合衆に任命され、引付・寄合兼務により幕府の中枢を担当する一員になった。 8月に北条煕時が引付1番から退いたため、貞顕は2番に昇進した。12月に越後守を辞任する。延慶3年(1310年)2月18日の引付再編により貞顕は引付頭人を辞職。6月25日に六波羅探題北方として上洛。6月28日に右馬権頭に輔任された。応長元年(1311年)10月24日に武蔵守に輔任される。なお、文献の写本にはげみ、金沢文庫の充実をはかっているものの北方時代には南方時代ほどの文化的活動の積極性は見られなかった。 正和4年(1315年)7月11日、北条基時が執権になると貞顕も連署に就任した。正和5年(1316年)7月に北条高時が執権になると、病弱な高時を補佐することになった。12月14日に従四位下に昇進。文保2年(1318年)2月3日に従四位上に昇進。文保3年(1319年)2月に武蔵守を辞任する。
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執権になるまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 09:27 UTC 版)
若くして実父時氏と死別したため、祖父・北条泰時に養育される。嘉禎3年(1237年)4月22日、11歳にして元服、征夷大将軍・九条頼経の偏諱(「頼」の1字)を賜り、五郎時頼を名乗る。同年、泰時の意向によって鶴岡八幡宮放生会で流鏑馬を担当。幼い頃から聡明で、祖父・泰時にもその才能を高く評価されていた。『吾妻鏡』には、1241年11月、12歳の時、三浦一族と小山一族が乱闘を起こし、兄・経時は三浦氏を擁護したが、時頼はどちらに荷担することもなく静観し、経時は祖父・泰時から行動の軽率さ、不公平を叱責され、逆に静観した時頼は思慮深さを称賛されて、泰時から褒美を貰ったというエピソードが収録されている。しかし、『吾妻鏡』の成立年代から判断して、この逸話は時頼が経時の系譜から結果として執権を強奪してしまったことを正当化する為に作られた挿話の可能性があることが指摘されており、奥富敬之はこのエピソードを後世のでっち上げと断定している。その一方で、高橋慎一朗はこのエピソードで時頼が経時と違って静観という態度をとったことに、次男と言う立場から兄に遠慮して積極的な行動を取らない時頼の立場や性格が伺えると指摘している。また、泰時から褒美として村を一つ拝領したことは事実だが、これも三浦と小山の諍いに対して適切な行動をしたことに対する褒美ではなく、日頃の恪勤に対する泰時のねぎらいからの褒美であった。 1242年に泰時が死去し、経時が後を継ぎ執権となる。時頼は1243年に左近将監、1244年に従五位上と昇進。この頃から、経時が病気となり、重篤になってゆく。1245年、時頼は鶴岡八幡宮の大鳥居の検分を行っている。病状芳しくない経時の代理として、時頼が本来執権が担当するべき大事な仕事を代行したと考えられる。1246年になると経時の病状はさらに悪化し、その結果、一門、重臣達による、「神秘の御沙汰」と呼ばれる秘密会議が行われ、時頼は兄経時から執権職を譲られる。なお、奥富敬之は時頼が重篤の経時を無理矢理引退に追い込んで時頼が権力を掌握したという推論をしているが、高橋慎一朗は当時の時頼にそこまでの政治力はなく自分に執権の座が回ってくるように手配できたかは疑わしいと懐疑的な見解を述べている。経時には二人息子がいたが、執権は時頼に譲られることとなった。高橋慎一朗は、まだ息子二人が幼いことを憂慮した経時が、自分の意向で弟時頼へ執権を譲ったと推測している。その後経時は出家し、程なく病死した。
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