執権政治の確立
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平安時代末期に摂津源氏の源頼政の知行国だった伊豆国の小豪族に過ぎなかった北条氏は、伊豆へ流罪となっていた河内源氏の源頼朝の挙兵に従い、頼朝を将軍とする幕府を成立させる。頼朝の死後は頼朝室の北条政子や北条義時が幕政を主導し、和田氏などの有力御家人を排斥し、また承久の乱においても御家人を統率して朝廷や反北条勢力を抑えた。 3代将軍源実朝の死による源家の断絶後、鎌倉幕府は朝廷から迎える摂家将軍を推戴し、将軍の地位を形式的なものにする一方、政務決裁には事実上のトップである執権、その補佐である連署、合議機関である評定衆を置く集団指導体制を成立させる。これは形式的であっても御家人の主君は将軍であり、北条氏は御家人の第一人者に過ぎないという事情があった。 また、北条泰時は分家を重ねた北条一門を統率するため、惣領家の家政機関を置き、家政運営のための条文を定めた。
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執権政治の確立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:30 UTC 版)
1224年に北条義時、1225年に北条政子や大江広元といった幕府創業世代が死去し、義時の子北条泰時が執権となった。泰時は、世代交代期の混乱を防ぐため、叔父の北条時房を執権の補佐役といえる連署に当てる(ただし、時房は本来は泰時と同役の執権であったとする見方もある)とともに、政治意思決定の合議機関である評定衆を設置し、集団指導体制を布いた。これには、基本的に鎌倉幕府は、鎌倉殿(将軍)と個々の御家人の主従関係によって成り立っているという事情がある。北条氏も鎌倉殿の家来のひとりに過ぎず、数ある御家人の第一人者であっても主君ではなかったのである。 承久の乱後、急増した訴訟事件を公平に処理するため、泰時は明確な裁判基準を定めることとした。これが御成敗式目と呼ばれる法典(武家法)であり、平易で実際的な法令と評価されている。後の室町幕府も、この法令を原則として継承している。また、泰時は、式目制定に当たって、朝廷の司法権を侵害するものでないことを強調している。 こうした泰時の一連の施策は、執権政治の確立と捉えられている。鎌倉幕府は、頼朝以来、鎌倉殿の個人的な資質に依拠するところが大きく、その組織も鎌倉殿の家政機関を発展させただけのものだった。しかし、泰時が確立した集団指導体制・明確な法令による司法体制は、個人的な資質などの不安定な要素に左右されることはなく、安定した政治結果を生み出すものだった。 泰時の孫北条時頼は、泰時の執権政治を継承していった。時頼は、司法制度の充実に力を注ぎ、1249年、裁判の公平化のため、引付衆を設置した。一方で、執権権力の強化にも努めた。1246年、時頼排除を企てた前将軍・藤原頼経と名越光時一派を幕府から追放する(宮騒動)と、1247年には有力御家人である三浦泰村の一族を討滅した(宝治合戦)。1252年、幕府への謀叛に荷担した将軍藤原頼嗣が廃され、代わりに宗尊親王を新将軍として迎えることに成功した。これ以後、親王将軍(宮将軍)が代々迎えられ、親王将軍は幕府の政治に参与しないことが通例となった。こうして、親王将軍の下で専制を強めていった北条氏は、権力を北条宗家へ集中させていった。時頼は、病のため執権職を北条長時に譲ったが、実権を握り続けた。これにより政治の実権は執権の地位と乖離していく。北条宗家を当時、得宗(徳宗)と呼んだことから、上記の政治体制を得宗専制という。
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