執権退任と嘉元の乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:10 UTC 版)
正安3年(1301年)、鎌倉に彗星が飛来(現在のハレー彗星にあたる)、これを擾乱の凶兆と憂慮した貞時は出家し、執権職を従兄弟の北条師時に譲ったが、出家後も幕府内に隠然と政治力を保った。 嘉元3年(1305年)4月22日、貞時は鎌倉の宿館が焼失したため師時の館に移ったが、その翌日に内管領の北条宗方によって貞時の命令として連署の北条時村が殺害される事件が起こった。これは、家格秩序や先例を無視した貞時の政治に抵抗する北条氏庶流を制圧しようとしたためであった。しかし、時村暗殺に対する族内の反発は予想以上に強く、焦った貞時は5月2日、時村殺害は誤りとして五大院高頼らを誅殺し、それでも反発が収まらなかったため、自分の責任を回避するために、5月4日には宗方の陰謀として宗方とその与党を誅殺した(嘉元の乱)。この事件に関しては執権の師時と宗方の対立、さらに得宗の貞時と歴代にわたって冷や飯を食わされていた北条宗宣の対立が背景にあったとされている。
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