執権就任と連署再任
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建長8年(1256年)より幼年の得宗後継者北条時宗の中継ぎとして6代執権となっていた甥の北条長時が病で出家したため、文永元年(1264年)7月、得宗家の後継者で、それでもまだ14歳である若年の時宗の代わりに60歳の政村が8月に7代執権に就任した。時宗は連署となり、北条実時・安達泰盛らを寄合衆のメンバーとし、彼らや政村の補佐を受けながら、幕政中枢の人物として人事や宗尊親王の京都更迭などの決定に関わった。名越兄弟(兄・朝時の遺児である北条時章、北条教時)と時宗の異母兄北条時輔が粛清された二月騒動でも、政村は時宗と共に主導する立場にあった。二月騒動に先んじて、宗尊親王更迭の際、奮起した教時が軍勢を率いて示威行動を行った際、政村は教時を説得して制止させている。 文永5年(1268年)1月に蒙古国書が到来すると、元寇という難局を前に権力の一元化を図るため、同年3月に執権職を18歳の時宗に譲り、64歳の政村は再び連署として補佐、侍所別当も務める。文永10年(1273年)5月に常葉上人を戒師に出家し、常盤院覚崇と号し、同月に69歳で死去。和歌・典礼に精通した教養人であり、京都の公家衆からも敬愛され、吉田経長は日記『吉続記』で政村を「東方の遺老」と称し、訃報に哀惜の意を表明した。『大日本史』が伝えるところによると、亀山天皇の使者が弔慰のため下向したという。連署は兄重時の息子北条義政が引き継いだ。なお、執権経験者が連署を務めた例は他に無い。 なお、近年になって石井清文は『鎌倉遺文』に掲載されている御教書や下知状の執権と連署の位署の問題から、長時の出家後に政村ではなく14歳の時宗が執権に就任したとする説を提示している。当該時期の『吾妻鏡』が残されていないために検証は困難であるが、その場合でも北条時輔を擁立する勢力を抑えるための措置で、政村が連署としてこれを補佐していたとみられている。
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