執権就任と連署再任とは? わかりやすく解説

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執権就任と連署再任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 02:50 UTC 版)

北条政村」の記事における「執権就任と連署再任」の解説

建長8年1256年)より幼年得宗後継者北条時宗中継ぎとして6代執権となっていた甥の北条長時が病で出家したため、文永元年1264年7月得宗家の後継者で、それでもまだ14歳である若年時宗代わりに60歳の政8月7代執権就任した時宗連署となり、北条実時安達泰盛らを寄合衆メンバーとし、彼らや政補佐を受けながら、幕政中枢の人物として人事宗尊親王京都更迭などの決定に関わった。名越兄弟(兄・朝時の遺児である北条時章北条教時)と時宗異母兄北条時輔粛清され二月騒動でも、時宗と共に主導する立場にあった二月騒動先んじて宗尊親王更迭の際、奮起した教時が軍勢率いて示威行動行った際、政は教時を説得して制止させている。 文永5年1268年1月蒙古国書が到来すると、元寇という難局前に権力一元化を図るため、同年3月執権職を18歳時宗譲り64歳の政は再び連署として補佐侍所別当務める。文永10年1273年5月常葉上人戒師出家し常盤院覚崇と号し同月69歳死去和歌典礼精通した教養人であり、京都公家衆からも敬愛され吉田経長日記吉続記』で政を「東方遺老」と称し訃報哀惜の意を表明した。『大日本史』が伝えところによると、亀山天皇使者弔慰のため下向したという。連署は兄重時の息子北条義政引き継いだ。なお、執権経験者連署務めた例は他に無い。 なお、近年になって石井清文は『鎌倉遺文』に掲載されている御教書下知状執権連署位署問題から、長時出家後に政ではなく14歳時宗執権就任したとする説を提示している。当該時期『吾妻鏡』残されていないために検証は困難であるが、その場合でも北条時輔擁立する勢力抑えるための措置で、政連署としてこれを補佐していたとみられている。

※この「執権就任と連署再任」の解説は、「北条政村」の解説の一部です。
「執権就任と連署再任」を含む「北条政村」の記事については、「北条政村」の概要を参照ください。

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