後藤基綱とは? わかりやすく解説

後藤基綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 05:50 UTC 版)

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後藤基綱
時代 鎌倉時代前期
生誕 養和元年(1181年
死没 康元元年11月28日1256年12月16日
幕府 鎌倉幕府 評定衆引付衆
主君 藤原頼経宗尊親王
氏族 藤原北家秀郷後藤氏
父母 父:後藤基清
兄弟 基成、基綱、基重、太田基連
基政、基隆
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後藤 基綱(ごとう もとつな)は、鎌倉時代前期の御家人歌人鎌倉幕府評定衆引付衆

略歴

養和元年(1181年)、藤原北家藤原秀郷の系譜を引く京武者後藤基清の子として誕生。

承久の乱では軍奉行を務めたと見られ、後鳥羽上皇方に付いた父・基清を幕府の命令により斬首した。その後、嘉禄元年(1225年)に設置された評定衆の一員となり、恩沢奉行地奉行となっている。基綱が記した記録は、かなりの量が『吾妻鏡』に利用されていると見られる。恩賞奉行として4代将軍・藤原頼経の側近でもあった為か、寛元4年(1246年)6月7日、宮騒動によって評定衆を解かれ頼経と共に京に同行。その6年後に引付衆として返り咲くが既に72歳の高齢に達しており、後藤氏の名誉回復に近いものであったとも見られる。康元元年(1256年)、死去。

武士としてより文官に近い実務官僚として活躍した。また歌人としても有名で、『新勅撰和歌集』には2首、続後撰集には3首、続古今集には1首、続拾遺集には1首、新続古今集には1首選ばれている。『十訓抄』の著者説もある。

子・基政は引付衆から六波羅評定衆となり、以降後藤氏は六波羅評定衆を世襲する。

出典

  • 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法―事実と神話にみる中世』(吉川弘文館、2000年)
  • 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』(吉川弘文館、2000年)




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