後藤祐乗とは? わかりやすく解説

ごとう‐ゆうじょう〔‐イウジヨウ〕【後藤祐乗】

読み方:ごとうゆうじょう

14401512室町後期の装剣金工家美濃の人。名は正奥。通称四郎兵衛足利義政仕え入道して祐乗と号した目貫(めぬき)・小柄(こづか)・笄(こうがい)の三所物(みところもの)の意匠技法新機軸打ち出し後藤家彫家彫)を創始精巧格調高い作風により、子孫代々将軍家御用勤めた


後藤祐乗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/23 00:12 UTC 版)

後藤祐乗像(個人蔵、重要美術品[1]

後藤 祐乗(ごとう ゆうじょう、永享12年(1440年) - 永正9年5月7日1512年6月20日))は、室町時代の金工家であり、装剣金工の後藤四郎兵衛家の祖。

来歴

藤原利仁の後裔ともされる後藤基綱の子。正奥幼名経光丸、通称は四郎兵衛。祐乗は剃髪入道してからの法号であるらしく[2]、一説に祐乗法印と称したという。子に彦四郎(早世)・宗乗(後藤家2代)などがいる。

美濃国の出身。後藤家の所伝によると、初め将軍足利義政側近の軍士として仕えていたが、18歳の時に同僚からの讒言を受けたために入獄し、獄士に請うて小刀と桃の木を得て神輿船14艘・猿63匹を刻んで見せたところ、その出来栄えに感嘆した義政によって赦免され、装剣金工を業とするように命じられたと伝えられる。また、足利家から近江国坂本に領地300町を与えられた他、後花園天皇から従五位下右衛門尉に叙任されたという。永正9年(1512年)5月7日に73歳で病没し、上品蓮台寺に葬られた。

作品

現存する祐乗の作品には自署在銘のものはなく、無銘または後代の極め銘のものばかりであるが、小柄(こづか)・(こうがい)・目貫(めぬき)の三所物(みところもの)が主で、良質な金・赤銅の地金に龍・獅子などの文様を絵師・狩野元信の下絵によって魚々子地に高肉彫で表したものが多い。祐乗の彫刻は刀装具という一定の規格のなかで、細緻な文様を施し装飾効果をあげるというもので、以後17代にわたる大判座および分銅座の後藤家だけでなく、江戸時代における金工にも大きな影響を与えた。代々通字として用いた。

代表作

「獅子牡丹造小さ刀拵」(前田育徳会蔵、重要文化財)がある。

脚注

  1. ^ 絹本著色。九曜紋のある素袴と折烏帽子を着け、足袋を履き、腰刀を一本指し、右手にはを持って高麗縁の上畳に座す。像の上部には日蓮宗の肖像画形式に従い、中央に「南無妙法蓮華経」の題目、向かって右端に「曾祖祐乗霊魂」、左端に「永正九年壬申五月七日」の墨書がある。「曾祖(曽祖父)」とあることから、曾孫が祐乗の冥福を祈って描かせたとみられる(奈良県立美術館編集・発行 『特別展「室町時代の肖像画」』、2000年、pp.43、83)。
  2. ^ 小笠原信夫 『国史大辞典』5巻「後藤祐乗」「後藤家」、吉川弘文館、1985年



後藤祐乗と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「後藤祐乗」の関連用語

後藤祐乗のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



後藤祐乗のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの後藤祐乗 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS