後藤屋敷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 02:09 UTC 版)
初代後藤祐乗から七代顕乗までの後藤屋敷は京都上京柳原(京都市北区岩栖辻子)にあったが寛永2年(1625年)に八代即乗は徳川幕府により江戸詰を命じられ、本白銀町三丁目(東京都中央区)に屋敷を拝領した。明暦2年(1656年)には十代廉乗が御用達町人上座となり江戸神田永富町(千代田区神田)に屋敷を拝領した。 明暦3年(1657年)、明暦の大火により江戸の後藤屋敷は類焼し、先祖以来の記録、家系図が失われたという。明暦の大火による焼損金銀吹き直しの功労により万治3年(1660年)に扶持石高250石を与えられ、寛文2年(1662年)から江戸定詰となった。正徳5年(1715年)には本白銀町と神田の屋敷を返上し、銀座のある京橋新両替町一丁目(中央区銀座)に改めて屋敷を拝領した。
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