後藤庄三郎家とは? わかりやすく解説

後藤庄三郎家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 15:20 UTC 版)

後藤庄三郎」の記事における「後藤庄三郎家」の解説

家職は後藤庄三郎家による世襲制であったが、大半養子縁組(細線)によるもので、嫡子推定されているのは七代八代十代、および十一代のみである。二代三郎広世は徳川家康落胤後藤家後藤庄三郎由緒書伝えている。十二代右衛門孝之は光次の養子後藤庄吉末裔分家であった銀座年寄役からの養子であった十一代三郎光包は不正発覚により文化7年1810年伊豆遠島流罪となり断絶し十三代三右衛門光亨も不正により弘化2年1845年)に処刑されている。 慶応4年4月17日1868年5月9日)、金座および銀座明治新政府接収され太政官設けられ貨幣司の下、十四代五郎光弘は二分判などの貨幣製造取り仕切ったが、明治2年2月5日1869年3月17日)には貨幣司も廃止され金銀関係者解任され明治5年4月1872年)吉五郎光弘は大蔵省より本町後藤屋敷からの退去命じられた。 元祖・光次 | 二代目・庄三郎広世 | 三代目・庄三郎良重 | 四代目・庄三郎光世五代目・庄之助広雅 | 六代目・庄三郎光富 ┃ 七代目・庄三郎光品 ┃ 八代目・庄三郎光焞 | 九代目・庄三郎光暢 ┃ 十代目・庄三郎光清 ┃ 十一代目・庄三郎光包 | 十二代目・三右衛門孝之 | 十三代目・三右衛門光亨 | 十四代目・吉五郎光弘 後藤庄三郎家略譜家督続柄室生元祖庄三郎光次 文禄4年1595年) 先室後藤徳乗娘、後室旗本青山善左衛門正長長女大橋元亀2年1571年寛永2年1625年7月23日 二代三郎広世 寛永2年1625年7月23日 母は大橋局、父は徳川家康との説 慶長11年1606年6月24日 延宝8年1680年3月14日 三代三郎良重 寛永18年1641年大判座九代程乗の嫡子養子世の娘婿次の元和8年1622年10月朔日 宝永4年1707年12月朔日 四代三郎光世 延宝5年1677年9月 正保2年1645年10月 宝永2年1705年7月7日 五代庄之助広宝永2年1705年7月7日世の三男長井宗兵衛広規の長男養子 延宝2年1674年5月 宝永2年1705年8月晦日 六代三郎光富 宝永2年1705年8月 光世の弟後藤宇右衛門良泰の次男養子 延宝7年1679年7月 寛保元年1741年12月10日 七代三郎光品 寛保2年1742年3月5日 光富の嫡子? 宝暦元年1751年6月朔日 八代三郎光焞 宝暦元年1751年9月 光品の嫡子? 明和2年1765年7月3日 九代三郎光暢 明和2年1765年7月2日次室末裔旗本青山善十郎長聴の次男金座青山兵之助、養子 宝暦9年1759年文化7年1810年8月11日 十代三郎清 寛2月1790年正月 光暢の嫡子? 文化2年1805年十一代三郎光包 文化2年1805年5月 光清の嫡子? 天保14年1843年6月 十二代右衛門孝之 文化7年1810年8月13日次の養子庄吉方之家銀座年寄役養子 文化11年1814年10月25日 十三代三右衛門光亨 文化13年1816年12月 信濃飯田商人弥七三男養子 方至の娘マサヨ 寛政8年1796年弘化2年1845年10月3日 十四代五郎光弘 弘化2年1845年10月9日 大判座十六後藤方乗の嫡子養子 天保5年1834年10月26日 明治26年1893年10月4日

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