略譜
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1470年(文明2年)頃、禅王寺(禅宗)が建立される。 1609年(慶長14年)、薩摩藩の侵攻により薩摩の直轄領となり「大和世(やまとぅゆ)」の時代となる。 1616年(元和2年)、徳之島に代官所が置かれ、沖永良部島と与論島を巡回して統治。 1690年(元禄3年)、徳之島代官の行政を離れ、沖永良部島代官所が設置される。 薩摩藩の直轄領時代は、主に政治犯的な囚人の流刑地。江戸時代末期(1862年(文久2年)-1864年(元治元年))、島津久光に疎まれた西郷隆盛が流されて1年7か月滞在した。 1869年(明治2年)、代官所を在藩所と改める。 1871年(明治4年)、廃藩置県により鹿児島県の沖永良部島支庁となる。 1903年(明治36年)、社倉法などを教示した西郷南洲翁を慕う島民たちによって和泊に南洲神社が建立される。 1908年(明治41年)、島嶼町村制が施行。和泊村と知名村(現在の和泊町と知名町)に区分される。 1920年(大正9年)、普通町村制が施行。各村長は住民の公選となる。 1946年(昭和21年)、第二次世界大戦後、連合軍総司令部の昭和21年2.2宣言により周辺の奄美群島と共に同年3月から祖国日本から行政分離されアメリカの軍政下に入る。「奄美群島の歴史」も参照 1953年(昭和28年)12月25日、沖永良部島含む奄美群島が日本に復帰。クリスマスであったことから、米国は「日本へのクリスマスプレゼント」とした。 1977年(昭和52年)、台風9号(沖永良部台風)が直撃。日本の陸上における最低気圧907.3ヘクトパスカルを記録した。 2011年(平成23年)、地域活性化を目的に日本一のガジュマルをモチーフに沖永良部島キャラクターと題しガジュ丸くんが誕生した。
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1959年 神奈川県横浜市生まれ。 1974年 クリスチャンになる。 1975年 関東学院六浦高等学校に進学 1978年 東京基督教短期大学に入学。 1986年 結婚 2015年 株式会社リ・クリエイション代表取締役に就任
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※日付=旧暦 和暦西暦月日事柄正嘉2年 1258年 生誕。 文永8年 1271年 1月5日 従五位下に叙位。 文永11年 1274年 3月22日 兵部少輔に任官。 3月24日 兵部権少輔に転任。 12月1日 院評定衆に加えられる。 建治3年 1277年 1月29日 従五位上に昇叙。 弘安2年 1279年 1月24日 越後介を兼任。 10月23日 飛騨守を兼任、越後介を去る。 弘安6年 1283年 3月28日 正五位下に昇叙。時に名を宣房と名乗る。 永仁6年 1298年 8月28日 春宮権大進に遷任(春宮は邦治親王:のち後二条天皇)。 正安元年 1299年 6月6日 春宮大進に転任。 正安3年 1301年 1月21日 新帝(後二条天皇)昇殿。東宮の践祚に伴い春宮大進を止む。 4月5日 五位蔵人に補任、兵部少輔を兼任。 正安4年 1302年 1月28日 右少弁に遷任、蔵人如元。 8月28日 権右中弁に転任、蔵人如元。 9月29日 従四位下に昇叙し、権右中弁如元。 12月26日 従四位上に昇叙。 12月30日 大蔵卿を兼任。 嘉元3年 1305年 3月8日 蔵人頭に補任、大蔵卿如元。 3月18日 権右中弁を兼任。 4月5日 左中弁を兼任。 4月19日 修理左宮城使に補任。 11月26日 参議に補任、大蔵卿如元。 嘉元4年 1306年 1月5日 正四位下に昇叙、参議・大蔵卿如元。 3月30日 出雲権守を兼任。 7月6日 父・資通の薨去により服解。 11月27日 弾正大弼を兼任。 12月12日 左大弁を兼任。 徳治2年 1307年 3月2日 造東大寺長官に補任、参議・大蔵卿・左大弁・弾正大弼・出雲権守如元。 8月4日 大蔵卿を止む。 11月1日 弾正大弼を止む。 徳治3年 1308年 9月17日 参議・造東大寺長官を辞す、左大弁・出雲権守如元。 11月14日 従三位に昇叙、出雲権守如元。 延慶3年 1310年 出雲権守を去る。 文保2年 1318年 4月2日 正三位に昇叙。 12月3日 権中納言に任官。 文保3年 1319年 3月9日 権中納言を辞任。 3月15日 従二位に昇叙、本座を許される。 6月6日 大宰権帥に任官。 元亨2年 1320年 1月3日 正二位に昇叙。 3月3日 大宰権帥を去る。 4月5日 権中納言に還任。 正中元年 1324年 10月29日 権大納言に転任。 正中2年 1325年 12月12日 帯剣を許される。 正中3年 1326年 2月19日 権大納言を辞任。 嘉暦3年 1328年 7月20日 権大納言に還任。 9月10日 伊勢勅使に補任され、伊勢神宮に奉幣。 嘉暦4年 1329年 6月28日 権大納言を辞任。 元徳2年 1330年 10月21日 権大納言に還任。 元弘元年/元徳3年 1331年 2月1日 大納言に遷任。 8月25日 六波羅探題に拘束される。 10月12日 官爵停止により、大納言を辞任。 元弘2年/正慶元年 1332年 4月10日 光厳天皇より参朝を勅許される。 元弘3年/正慶2年 1333年 5月17日 大納言に還任。 6月12日 按察使を兼任。 建武元年 1334年 7月9日 大納言を辞任し、従一位に昇叙。 建武2年 1335年 4月7日 大納言に還任。 7月 大納言を辞任。 延元元年/建武3年 1336年 1月 出家。 正平3年/貞和4年 1348年 10月18日 薨去か。享年91。
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「アルバート・ヴェン・ダイシー」の記事における「略譜」の解説
1835年2月4日、イギリスのクレイブルック・ホールで生まれる。 1854年、オックスフォード大学に入学し、首席で卒業。 1861年、インナー・テンプル法曹院入学。 1882年、オックスフォード大学教授。 1907年、オックスフォード大学名誉教授。 1922年4月7日永眠。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 02:11 UTC 版)
1985年 群馬県生まれ。両親ともに会社員で、共働きの家庭で育つ。 2002年 18歳 長野の大学に進学。 2004年 20歳 スノーボードJIBセッション「S-Effection」にて優勝。地方の大学を卒業後、IT企業に就職。 2007年 23歳 ソフトウェア特許を発明者として6件出願。 2009年 25歳 IT事業の個人事業主として独立。 2012年 27歳 株式会社リアルジャパンとして法人化。 2014年 29歳 バブルサッカー事業に参入。 2015年 30歳バブルサッカー業界において、開催回数・開催人数 日本一を達成。 2016年 31歳汐留に初の飲食店をプロデュース。 ランチパスポート新橋・虎ノ門エリアで初登場準グランプリ獲得。 講演・研修の講師としては、7年間で通算700回開催、のべ5万人が受講。 2017年 32歳 汐留イタリア街の地域活性化に参画。汐留大学の講師に就任。 2018年 33歳初の書籍&オーディオブック『ハイスコア 人生は最大限を目指すゲーム(幻冬舎MC)』は、Amazonオーディオブックランキング 全国1位、紀伊国屋全国デイリーランキング 1位、ジュンク堂 ジャンル別ランキング 2位、三省堂有楽町店ランキング 1位、八重洲ブックセンターランキング 1位を獲得。発売3か月で発行部数1万部を突破。 初のクラウドファンディング『誰もが輝けるファッションショーイベント』は達成率179%、400名超満員。グリコ・サントリーが協賛企業となるなど、話題に。 『和合堂』(2002年 - )を先代から継承。和喫茶&オーガニックショップとして三田にオープン。 2019年 34歳人を大事にする転職エージェント「和合堂エージェンシー」を設立。株式会社ギフトが運営。 イスラエル国観光庁公認「イスラエル親善大使」に就任。 クリスチャンとなる。 2020年 35歳 YouTuberとしての活動を開始。 2022年 第26回参議院議員通常選挙・比例代表に政治団体「ごぼうの党」から立候補し、落選。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 15:15 UTC 版)
日付はいずれも旧暦。 治承3年(1179年)2月28日 - 生誕 文治5年(1189年)11月19日 - 親王宣下、無品 建久2年(1191年)12月26日 - 元服・加冠、三品 建暦2年(1212年)3月26日 - 出家、入道親王 承久3年(1221年)8月16日 - 太上天皇(法皇) 貞応2年(1223年)5月14日 - 薨去
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/18 10:01 UTC 版)
※ 日付=旧暦 和暦西暦月日事柄弘安6年? 1283年? 生誕。 正中元年 1324年 10月29日 右中弁に任官。時に正四位下(『弁官補任』)。 正中2年 1325年 12月18日 左中弁に転任(『弁官補任』)。 正中3年 1326年 2月19日 右大弁に転任(『公卿補任』)。 嘉暦2年 1327年 1月5日 正四位上に昇叙(『公卿補任』)。 7月16日 従三位に昇叙(『公卿補任』)。 閏9月20日 造興福寺長官に補任(『公卿補任』)。 嘉暦3年 1328年 3月16日 参議に補任(『公卿補任』)。 9月23日 左京大夫を兼任(『公卿補任』)。 元徳元年 1329年 1月13日 周防権守を兼任(『公卿補任』)。 2月12日 周防権守・右大弁を辞職、正三位に昇叙(『公卿補任』)。 元徳2年 1330年 11月7日 還任(『公卿補任』)。 元弘元年/元徳3年 1331年 1月13日 再び辞職(『公卿補任』)。 元弘3年/正慶2年 1333年 6月12日 再び還任し、右大弁を兼任(『公卿補任』)。 9月23日 造興福寺長官に補任(『公卿補任』)。 建武元年 1334年 1月13日 信濃権守を兼任(『公卿補任』)。 9月4日 大蔵卿を兼任(『公卿補任』)。 9月28日 従二位に昇叙(『公卿補任』)。 12月17日 大蔵卿を停任(『公卿補任』)。 延元2年/建武4年 1337年 1月7日 左大弁に転ず(北朝)(『公卿補任』)。 3月29日 辞職(『公卿補任』)。南朝(吉野朝廷)へ参候したか。 延元3年/暦応元年 1338年 3月21日 吉野行宮で薨去(『公卿補任』) 享年56?
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/01 03:06 UTC 版)
波多泰 - 壱岐島に城代を置く 波多興 波多盛 波多隆 - 波多親派に討たれる 波多重 - 隆に同じ 波多政 - 壱岐島城代となるが家臣に討たれる 波多親 - 盛の娘の嫁ぎ先である有馬義貞との子。16代波多氏当主
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 08:15 UTC 版)
※ 日付=旧暦 和暦西暦月日事柄延慶元年 1308年 生誕。 正和2年 1313年 9月6日 叙爵。 正和3年 1314年 9月21日 従五位上に昇叙。 文保元年 1317年 1月5日 正五位下に昇叙。 文保2年 1318年 1月2日 元服。 1月22日 侍従に任官。 11月21日 従四位下に昇叙。 元亨2年 1322年 1月2日 従四位上に昇叙。 6月17日 右近衛少将に遷任。 正中2年 1325年 1月20日 禁色を聴される。 嘉暦2年 1327年 7月23日 故あって四位の位記を止められるが、同時に蔵人に補任。 8月1日 弾正少弼に遷任し、右少将を去る。蔵人如元。 11月15日 権左中弁に遷任。蔵人・少弼如元。 嘉暦3年 1328年 1月1日 左右少弁の上に列せられる。 1月5日 正五位上に昇叙。 6月13日 従四位上に昇叙。 9月23日 従四位上に昇叙。 11月27日 参議に補任。 元徳元年 1329年 1月7日 正四位下に昇叙。 2月12日 右大弁を兼任。 9月26日 正四位上に昇叙。 11月9日 従三位に昇叙。 元徳2年 1330年 1月13日 美作権守を兼任し、造東大寺長官に補任。 3月1日 左大弁に転任。 3月22日 権中納言に転任。 3月27日 正三位に昇叙。 7月17日 右衛門督を兼任。 10月5日 左衛門督に転任。 12月14日 検非違使別当に補任。 元弘元年 1331年 8月25日 六波羅探題によって捕捉される。 10月5日 元弘の乱に参与したため解官。 元弘2年/正慶元年 1332年 4月10日 鎌倉幕府の奏聞によって幽閉される。 元弘3年/正慶2年 1333年 5月17日 光厳天皇の廃位に伴い、本職に復す。 9月23日 修理大夫を兼任。 建武元年 1334年 1月23日 春宮権大夫を兼任。 9月28日 従二位に昇叙。 10月9日 修理大夫を辞任。 12月17日 大学頭を兼任。 延元元年/建武3年 1336年 3月1日 正二位に昇叙。 5月25日 尾張守を兼任。 12月 吉野朝廷(南朝)に参候したため解官。 延元4年/暦応2年 1339年 権大納言に転任(以下、『南朝公卿補任』による)。 正平2年/貞和3年 1347年 右近衛大将を兼任。 正平3年/貞和4年 1348年 10月 従一位に昇叙。 正平4年/貞和5年 1349年 2月22日 権大納言・右近衛大将を辞任。 正平7年/文和元年 1352年 2月 権大納言・右近衛大将に還任。 正平8年/文和2年 1353年 7月 右大臣に転任。 正平10年/文和4年 1355年 3月7日 左大臣に転任。 正平12年/延文2年 1357年 1月20日 東宮傅を兼任(東宮は寛成親王)。 正平13年/延文3年 1358年 8月19日 水腫所労のため薨去。享年51。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/29 05:32 UTC 版)
日付=旧暦 和暦西暦月日事柄正安3年 1301年 生誕。 乾元元年 1302年 1月28日 叙爵。 徳治元年 1306年 1月5日 従五位上に昇叙。 12月22日 侍従に任官。 徳治2年 1307年 2月9日 正五位下に昇叙。 延慶2年 1309年 9月1日 従四位下に昇叙。 12月26日 右近衛少将に遷任。 延慶3年 1310年 12月28日 従四位上に昇叙。 応長元年 1311年 3月4日 左近衛中将に転任。 正和元年 1312年 1月13日 播磨介を兼任。 10月12日 正四位下に昇叙。 正和5年 1316年 11月23日 従三位に昇叙。左中将如元。 文保元年 1317年 4月6日 左大弁・造東大寺長官を兼任。 12月22日 参議に補任。 文保2年 1318年 1月22日 土佐権守を兼任。 7月7日 権中納言に転任。 10月9日 帯剣を聴される。 元応元年 1319年 8月7日 中宮権大夫を兼任(中宮は西園寺禧子)。 元亨元年 1321年 1月5日 従二位に昇叙。 元亨3年 1323年 1月13日 右衛門督を兼任。 正中元年 1324年 4月27日 中宮大夫を兼任。 5月26日 左衛門督を兼任。 10月29日 中納言に転任。 正中2年 1325年 1月29日 弾正尹を兼任。左衛門督を停任。 嘉暦元年 1326年 2月19日 権大納言に転任。中宮大夫・弾正尹如元。 嘉暦2年 1327年 2月23日 中宮大夫を停任。 11月10日 正二位に昇叙。 嘉暦3年 1328年 5月8日 弾正尹を辞任。 元徳元年 1329年 6月28日 大納言に転任。 元弘元年/元徳3年 1331年 9月29日 出家。 元弘2年/正慶元年 1332年 5月 下総国に配流。 10月末 配所で薨去。享年32。 元弘3年/正慶2年 1333年 6月23日 太政大臣を追贈。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/26 01:13 UTC 版)
西尾実の長男として長野県下伊那郡飯田町(現飯田市)に生まれる。1926年、一家で東京府豊多摩郡落合町に移る。旧制浦和高等学校文科を経て、1936年東京帝国大学文学部国文科卒。 1943年陸軍士官学校教授、1946年東京外国語大学教授を経て、1949年山梨大学教授、1979年定年退官、名誉教授、同年清泉女子大学教授、1985年上田女子短期大学学長。1989年11月勲三等旭日中綬章受章。中世説話文学を専門とした。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/31 07:22 UTC 版)
和暦西暦月日事柄正応4年 1291年 生誕。 応長元年 1311年 1月 春宮権大進に見任。 正和4年 1315年 5月 右衛門権佐に見任。 文保元年 1317年 3月4日 蔵人に補任。時に正五位下・左衛門権佐。 文保2年 1318年 2月11日 兵部権少輔に遷任。元民部少輔。 元応元年 1319年 3月9日 右少弁に遷任し、蔵人・権少輔を去る。 元応2年 1320年 3月24日 右中弁に転任。 4月12日 従四位下に昇叙、修理右宮城使に補任。 元亨元年 1321年 1月5日 従四位上に昇叙。 4月6日 左中弁に転任。 6月6日 修理左宮城使に補任。 12月29日 備中介を兼任。 元亨2年 1322年 1月9日 記録所寄人に補任。 元亨4年 1324年 4月17日 正四位下に昇叙。 4月27日 蔵人頭・中宮亮に補任し、左中弁を去る。 10月29日 蔵人頭・中宮亮を辞す。 嘉暦2年 1327年 3月24日 蔵人頭に還任し、治部卿に任官。 7月16日 参議に補任し、治部卿元の如し。 8月14日 弾正大弼を兼任。 嘉暦3年 1328年 1月5日 従三位に昇叙。 3月16日 丹波権守を兼任。 元徳元年 1329年 1月13日 弾正大弼を停任。 9月26日 治部卿を停任。 元徳2年 1330年 1月5日 正三位に昇叙。 2月11日 参議を辞す。 元弘元年/元徳3年 1331年 8月25日 六波羅探題に拘束される。 元弘2年/正慶元年 1332年 5月22日 相模早川尻で梟首、享年42。 昭和6年 1931年 12月21日 従二位を追贈。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 13:14 UTC 版)
「ジャン=バティスト・デニ」の記事における「略譜」の解説
パリ生まれ。医学の道を志しヨーロッパ最古の伝統を誇るモンペリエ大学の医学部で学ぶ。その後医師として成功しフランス国王ルイ14世の顧問医師も務めた。 1667年6月15日、人への輸血を研究していたデニは、15歳の少年に12オンス(約400cc)の羊の血を輸血した。この少年は生き延び、同様に別の労働者にも輸血がされたが彼も生き延びた。現在の血液学の理論から見れば、非常に危険な行為であるが、2人が生存し得たのは、輸血の量が少なく、拒絶反応に体が耐えられたためだと考えられる。3人目のスウェーデンの貴族グスタフ・ボンド(Gustaf Bonde)に2回の輸血が行われたが、2回目の輸血の後すぐに死亡した。さらに1667年の冬、アントワーヌ・モロワ(Antoine Mauroy)に子牛の血を輸血したが、3回目の輸血の後死亡した。モロワの死をめぐって彼の妻がデニを訴え、裁判となった。後にモロワの死因は、夫の財産を狙った妻による砒素を使った毒殺であることが判明しデニは無罪となるが、裁判の後、彼は輸血実験を二度と行うことはなかった。この治療法は論争を呼び、1670年に禁止された。 輸血が安全な治療法になるのは、そこから200年以上経過した1900年にカール・ラントシュタイナーが血液型を発見し、血液の凝固を防ぐ方法が確立された後のことである。
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略譜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 02:28 UTC 版)
1899年(明治32年)- 日本赤十字社長野支部看護婦第13期生を卒業し、東京の本社に転勤し、看護婦長となる。その後、日露戦争、第一次世界大戦、日中戦争に従軍する。勲七等宝冠章受勲。 1911年(明治44年)- 東宮妃(後の貞明皇后)の大患の時、3か月間看護に当る。秩父宮雍仁親王・高松宮宣仁親王発病時にも看護に当る。 1925年(大正14年)- ヘルシンキの万国赤十字看護婦会議に日本代表として出席し、万国赤十字社から日本国内4人目のナイチンゲール章を受勲する。 下田歌子が校長であった実践女学校に講師として招かれ、看護学の講座を担当する。 1946年(昭和21年)- 日本赤十字社有功章を受章。 1949年(昭和24年)- 貞明皇后が長野県有明天柞蚕試験場を視察した際、単独拝謁し、下賜品を送られる。
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