歴代略譜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:10 UTC 版)
現住職 福岡 隆之(ふくおか りゅうし) - 2007年(平成19年)、大本山總持寺での修行を経て住職となる。
※この「歴代略譜」の解説は、「冨春院 (甲府市)」の解説の一部です。
「歴代略譜」を含む「冨春院 (甲府市)」の記事については、「冨春院 (甲府市)」の概要を参照ください。
歴代略譜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 22:59 UTC 版)
「本光寺 (東京都港区)」の記事における「歴代略譜」の解説
開山 法仙院日要大徳 - 1624年(寛永元年)麻布今井村に一宇を建立、1665年(寛文9年)遷化 二世 慈眼院日就大徳 - 麻布宮村町藪下に2割増を以って替地を命ぜられる、1688年(貞享5年)遷化 三世 受清院日厚大徳 - 八品門流の僧侶、1716年(享保元年)遷化 四世 本受院日等大徳 - 日晄師御指南、1733年(享保18年)遷化 五世 世尊院日成大徳 - 日體師御指南、現在の大隈山へ引寺する、中興の祖、1785年(天明5年)遷化 六世 辨正院日趣大徳 - 日啓師御指南、四世日等大徳の弟子、1771年(明和8年)遷化 七世 冷寿院日欣大徳 - 住職歴20年、1805年(文化2年)表門、本堂再建、1816年(文化13年)遷化 八世 勤求院日詳大徳 - 本堂再建の借財を返済し庫裏を新規建直す 九世 要題院日従大徳 - 越後国山崎に生れ、日済聖人御弟子、在職8年、1838年(天保9年)遷化 十世 安住院日敬大徳 - 越後国長岡本妙寺歴代の弟子、在職9年、1850年(嘉永3年)遷化 十一世 大法院日聴大徳 - 長岡本妙寺十六世安楽院日全の弟子、在職5年 十二世 勇謹院日孝大徳 - 越後国椿沢弘法院二世寿延院日量の弟子、在職3年、1870年(明治3年)遷化 十三世 玄悟院日亮大徳 - 本山塔頭寿妙院十二世息災院日茂忠善の弟子、1911年(明治44年)遷化 十四世 勤修院日幸大徳 - 誠諦寺歴代より転住、1874年(明治7年)遷化 十五世 教聡院日住大徳 - 日良の弟子、僧名行円、越中国袋村松永家に生れる、1918年(大正7年)遷化 十六世 一乗院日研大徳 - 1889年(明治20年)本堂庫裏大修復時の住職、1889年(明治22年)遷化 十七世 顕寿院日進大徳 - 僧名梅田教厳、長岡本妙寺二十世より転住、1948年(昭和23年)遷化 十八世 本力院日勤大徳 - 僧名笹川契行、1914年(大正3年)庫裏創建百年記念修復を遂行、1923年(大正12年)遷化 十九世 恭謙院日敬大徳 - 1924年(大正13年)住職、1944年(昭和19年)権大僧正、宗務総長を勤む、1959年(昭和34年)遷化 二十世 謙明院日雄大徳 - 日敬大徳次男、日大三高教諭、野球部監督。日敬聖人遷化により1959年(昭和34年)二十世。宗務院財務部長、2000年(平成12年)権大僧正、在職34年、2001年(平成13年)隠居、2003年(平成15年)10月5日遷化 二十一世 西山英仁 - 2001年(平成13年)3月、法華宗宗務庁より二十一世住職の辞令を拝受し、本光寺の法灯を継承した。2016年(平成28年)12月、法華宗陣門流の宗務総長に就任した。2018年(平成30年)6月、法華宗総本山本成寺塔頭(前寺)本高院住職・西山明仁が、本高院住職を退任し、本光寺・副住職に赴任した。
※この「歴代略譜」の解説は、「本光寺 (東京都港区)」の解説の一部です。
「歴代略譜」を含む「本光寺 (東京都港区)」の記事については、「本光寺 (東京都港区)」の概要を参照ください。
歴代略譜
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 01:15 UTC 版)
竺翁円符和尚 (ちくおうえんぷ) - 常陸茨城郡笠間、鳳台院を開山 開山 覚山見知和尚禅師 (かくさんけんち) - 長源院は戦国時代の初期、1438年(長享2年)創立された。同和尚は高徳の僧で、初め諸方を遊歴し、手越しの里に来て心願があって当目の虚空蔵菩薩へ参籠した。相模海蔵寺の安叟禅師に就いて学び、さらに常陸国に行き鳳室院を興したが、兄弟子竺翁円符和尚を開山に請し、自分は第二世となって在住した。日頃信仰していた秩父金龍寺の鎮守子聖権現の示現を蒙って再び駿河に帰り善長院に住まわれ説法を行った。1523年(大永3年)1月16日示寂 二世 厚福栄琳和尚 (こうふくえいりん) - 静岡市向敷地に小森山泉秀寺を開山。静岡市千代田に医王山東光寺を開山 三世 大雄崇偉和尚 (だいゆうすうい) - 静岡市新間に楠谷山見性寺を開山 玉峰守永和尚 (ぎょくほうしゅえい) - 静岡市長妻田に松尾山曹源寺を開山 四世 覚林梵称和尚禅師(かくりんぼんせん) 五世 能屋梵芸和尚禅師 (のうおくぼんげい) - 静岡市葵区井宮町に泰雲山端龍寺を開山 六世 謙峰梵益和尚禅師(けんしゅうぼんえき) 七世 在川見昨和尚 (ざいせんけんさく) - 掛川市仁藤に日綸山真如寺 (掛川市)|真如寺を開山。静岡市中田本町に玉泉山吉祥寺を開山。 初代土佐藩主の山内一豊の伯父である。在川謙昨和尚の当時、駿府城にいた家康は鷹狩りに出かけたおり長源院に立ち寄った。その時寺が山の側にあるので、「山脇へ行け」と云われたのが遂に地名となり、此のあたり一帯を「山脇」と呼ぶようになった。1613年(慶長18年)9月示寂 八世 泰岳是安和尚 (たいがくぜあん) - 静岡市葵区南瀬名町に大円山増福寺を開山。浜松市浜北区新堀に久円寺を開山。学僧で時々家康に召されて法話を申し上げた。家康は長源院へ入江の庄を寄附しようといわれたが、そこには御料もあると断ると、沓谷郷の中で千石を寄附しようといわれたが、再び辞退してしまった。家康は和尚の無欲に感心して大般若経六百巻と兆殿司の筆になる十六善神の画像を寺へ寄附せられた。当時この寺に御座所を設けよという仰せもあったといわれている、同和尚がそれを固辞したため、家康の信任はさらに強まり、同寺を駿河国第一の祈願所にしたという。1635年(寛永12年)3月示寂 九世 堯山梵舜和尚 (きょうざんぼんしゅん) - 1635年(寛永12年)7月示寂 十世 品南伝序和尚 (ほんなんでんじょ) - 東京都台東区西浅草に天徳山本然寺を開山。静岡市葵区瀬名川に無量山浄界寺を開山。静岡葵区上洗足に瑞光山天昌寺を開山。1662年(寛文3年)12月示寂 十一世 巨峯呑鯨和尚 (こほうどんげい) - 静岡市駿河区有東に向富山金剛寺を開山 十二世 一渓雷音和尚 (いっけいらいおん) 十三世 通山伝達和尚 (つうさんでんたつ) - 静岡市葵区宮前町に君谷山長泉寺を開山。1692年(元禄5年)10月示寂 十四世 文巌端鼎和尚 (もんがんたんてい) - 1742年(延享2年)11月示寂 十五世 快鷹宗明和尚 (かいようしゅうみょう) - 1743年(延享3年)12月示寂 十六世 覚堂即聞和尚 (かくどうそくもん) - 1786年(天明6年)7月示寂 十七世 妙山覚中和尚 (みょうさんかくちゅう) 十八世 益音高州和尚 (えきおんこうしゅう) - 1788年(天明8年)1月示寂 十九世 洞岳月庭和尚 (どうがくげってい) - 1826年(文政9年)12月示寂 二十世 桂堂月枝和尚 (けいどうげっし) - 1844年(弘化元年)2月示寂 二十一世 大澄譚龍和尚 (だいちょうたんりゅう) - 1818年(文政元年)9月示寂 二十二世 祖山眠宗和尚 (そざんみんしゅう) 二十三世 雪梅闇英和尚 (せつばいぎんえい) 二十四世 蘭庭護秀和尚 (らんていごしゅう) - 1833年(天保3年)6月示寂 二十五世 不白為山和尚 (ふはくいさん) - 1829年(文政12年)5月示寂 二十六世 天寧長全和尚 (てんねいちょうぜん) - 1824年(弘化2年)10月示寂 二十七世 来喚英本和尚 (らいかんえいほん) - 1867年(慶応3年)3月示寂 二十八世 達門桂宗和尚 (たつもんけいしゅう) - 1860年(万延元年)7月示寂 二十九世 活山禅英和尚 (かつさんぜんえい) 三十世 大英哲玄和尚 (だいえいてつげん) 三十一世 寶山卍鼎和尚 (もうざんまんてい) 三十二世 成学實円和尚 (じょうがくじつえん) 三十三世 仙庵實童和尚 (せんあんじつどう) - 寺格を昇等して随意会地に進んだ。1923年(大正12年)7月示寂 三十四世 磐山龍渓和尚 (ばんざんりゅうけい) - 駒沢大学教授として活躍した。著書に『天台西谷名目講義』がある。 三十五世 透関實玄和尚 (とうかんじつげん) - 1938年(昭和13年)本堂屋根替および内部改造の大修理、1953年(昭和28年)頃寺内の整備、1957年(昭和32年)梵鐘再鋳、庫裡、屋根替等の修理を行った 三十六世 英嶽實雄和尚 (えいがくじつゆう) - 1972年(昭和47年)1月示寂 三十七世 法彩文司和尚 (ほうさいぶんじ) - 先師三十六世英嶽實雄和尚還化に際して、「当山の由緒が詳かでないため、拙納在住以来、葵文庫加藤氏の助力を得て史書を渉猟し寺伝を調査し、略々其の大概を知ることが出来た。そして慈に功徳主を得て印刷配布する次第である。」と1972年(昭和47年)1月5日記録を再版した。1981年(昭和56年)9月示寂 三十八世 大運昌雄和尚 (だいうんしょうゆう) - 1988年(昭和63年)12月から本院、諸堂および寺域、墓地、通路などの整備修復の大事業にとりかかり、5年有余の歳月をついやして裏山の山道から本堂内部の大修繕、長屋の大改造、庫裡、客間、庭園等々を整備した。1993年(平成5年)8月「長源院誌」を発行、1996年(平成8年)8月「長源院誌資料集」を発行した。長源院は3度の火事と明治初年の廃仏棄却の影響か古文書がなかったため、北堀昌雄和尚を支えて檀家総代の方々の協力を得、後世に残すべき総てを書き残した 三十九世 佛海哲舟和尚 (ぶっかいてっせん) - 金剛十一世。1998年(平成10年)長源院住職辞令。 2014年(平成26年)1月31日示寂。享年88。2003年(平成15年)多額の借金の返済を成し遂げ、2005年(平成17年)鐘楼堂の改築、2012年(平成24年)本堂裏擁壁工事、新墓地の開発、本堂屋根瓦の改修、参道石段工事等に努力した。三十九世の遺業となった位牌堂(山脇殿)改築の落慶法要は2015年(平成27年)5月3日に執り行われた 四十世 佛道哲裕和尚 (ぶつどうてつゆう) - 晋山式が2016年(平成28年)11月13日に執り行われた。2018年(平成30年)客殿庫裏建替え
※この「歴代略譜」の解説は、「長源院」の解説の一部です。
「歴代略譜」を含む「長源院」の記事については、「長源院」の概要を参照ください。
- 歴代略譜のページへのリンク