元祖庄三郎とは? わかりやすく解説

元祖庄三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 15:20 UTC 版)

後藤庄三郎」の記事における「元祖庄三郎」の解説

文禄2年1593年)、橋本三郎徳川家康接見し文禄4年1595年)には彫金師後藤徳乗の名代として江戸下向した。出身美濃国加納城長井藤左衛門利氏の末裔ともされるが、疑問視されている。庄三郎本姓山崎との説もある。庄三郎京都後藤家職人として従事しているうちに徳乗に才覚認められ代理人抜擢されとされる。庄三郎は徳乗と家康後藤庄三郎光次の名、五三桐紋の使用許された。京都後藤家室町幕府以来御用金匠であり、茶屋四郎次郎家、角倉了以と共に京都の三長者呼ばれた当時判金といえば大判のことであったが、家康貨幣としての流通前提とした一両小判鋳造構想があった。「武蔵壹兩光次(花押)」と墨書され、桐紋極印打たれ武蔵墨書小判現存し、これが庄三郎江戸下向した当時鋳造され関八州通用領国貨幣であるとされている。 後藤庄三郎光次文禄4年江戸本町一丁目拝領し後藤屋敷を建て、屋敷内小判の験極印を打つ後藤役所設けた。この地は現在、日本橋本石町日本銀行本店所在地にあたる。また慶長6年1601年)には京都慶長12年1607年)には駿府、また元和7年1621年)には佐渡後藤役所出張所設けて極印打ち開始した。さらに天領金山銀山支配し家康財政貿易などの顧問として権力誇った。しかし二代三郎広世以降金座支配のみにとどまったまた、三郎光次は文禄5年3月2日1596年3月30日)付の後藤徳乗、後藤四郎兵衛後藤長乗に提出した証文において、後藤の姓を名乗るのは光次自身一代限り宣誓していたが、結果的に反故にされ、徳川家権威背景京都後藤宗家黙認したとされる天領金山から産出する公儀の吹金を預り小判鋳造する場合の手数料である分一金は、慶長期初期は吹高10両につき金目五分であったが、後に後藤手代取り分は吹高1000両につき10両と定められた。 なお、金座の名称は直吹となった元禄改鋳以降称されるようになったという説もあるが、延宝2年4月1674年)の幕府触書にも金座の名称が登場している。しかし京都では明暦寛文のころ小判座と称していた。小判一分判二分判、二朱判、一朱判および五両判のような金貨には何れも「光次(花押)」の極印打たれている。

※この「元祖庄三郎」の解説は、「後藤庄三郎」の解説の一部です。
「元祖庄三郎」を含む「後藤庄三郎」の記事については、「後藤庄三郎」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「元祖庄三郎」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「元祖庄三郎」の関連用語

元祖庄三郎のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



元祖庄三郎のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの後藤庄三郎 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS