執筆されなかった作品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:50 UTC 版)
「火の鳥 (漫画)」の記事における「執筆されなかった作品」の解説
大地編(シノプシスのみ) 初出:『月刊ニュータイプ5月号付録「手塚治虫MEMORIAL BOOK」』(角川書店/1989年刊行)、その他にも証言複数あり。 大地編は二種類が存在する。「日中戦争が舞台の物語」と「幕末から明治維新が舞台の物語」である。 一つは西暦1938年(昭和13年)の1月が時代背景。日中戦争時の上海を舞台に、関東軍の戦意高揚のため、中国大陸に伝説の仙鳥の探索を計画する。シノプシスには間久部緑郎(ロック)、その弟の間久部正人、猿田博士が登場。 1989年の舞台劇『火の鳥』の原作として、上記内容で新作描き下ろしを連載をする予定だったが、よりSF的な内容にとの希望があったためペンディングとなった。『野性時代』に1989年春から掲載されるはずだったとも言われるが、手塚が病に倒れたことから執筆されることはなかった。ただし、『野性時代』の編集部は『火の鳥』の続編ではなく『シュマリ』の続編を望んでいことから内容の構想を変えたという。シノプシスの内容はナツメ社から発売されている「火の鳥公式ガイドブック」や朝日ソノラマから出版されている「太陽編・下(B5版)」などで確認できる。文章量は原稿用紙2枚と5行。日中戦争を舞台とした火の鳥大地編は舞台劇火の鳥のシナリオへと書き直された。 『野性時代』に連載予定だった大地編は日中戦争が舞台ではなく、シュマリと同じような時代に合わせて幕末から明治維新を舞台に構想されていた。手塚プロダクションの松谷孝征社長は「構想など手塚が残した骨子はあるので、次作が実現すれば、手塚プロ出身者など“身内”の誰かに描いてもらいたい」「舞台は幕末から明治維新。シュマリみたいな主人公が大陸に渡る話です」と語っている。 このシノプシスを元に桜庭一樹が『小説 火の鳥 大地編』のタイトルで執筆、2019年4月より朝日新聞土曜別刷り「be」において連載されている。挿絵は黒田征太郎が担当。 再生(アトム?)編(構想のみ) 初出:『雑誌「COM」火の鳥黎明編第5回』(1967年5月号)、その他にも証言複数あり。 火の鳥に鉄腕アトムが登場するという構想が存在し、複数の証言が得られている。 火の鳥黎明編の雑誌掲載版では、猿田彦の鼻が大きくなる所のナレーション解説が入る場面で「この物語の中では、猿田彦は、ただの防人ではあるが、お茶の水博士の先祖ということになっている」と書かれていた。単行本では「この物語の中では、猿田彦は、ただの防人ではあるが、彼の子孫は、物語全体を通じていずれも重要な役割を持つようになるのである」に変更された。 赤旗(現・しんぶん赤旗。1997年4月より改題)1974年1月22日付けコラム中で、手塚は「火の鳥は、太古から、超未来までえんえんと運ばれる叙事詩です。(中略)じつは、これはまだ先の話ですが、二十一世紀の部分のエピソードで、アトムの物語がでてきます。アトムもじつは火の鳥の一挿話だったというオチです。」と語っている。 連続ラジオ小説「火の鳥 乱世編」(NHKラジオ第1放送 1980年3月21日)でもその内容が語られている。本編OA後に手塚治虫自身が21世紀が舞台であるので『鉄腕アトム』の外伝を描いてみたいと構想を語っている。具体的な構想があったわけではないが、断片的なアイデアとして、「アトムはロボットであり、不死の存在と言える。その魂は、最終的には、火の鳥に救われるのではないか」と言うことと、「意識していたわけではないのだが、お茶の水博士はその容貌からして、猿田の血を引いていると思う。彼はアトムの最期を見届けることになるだろう」と語っている。 長く手塚のチーフアシスタントを務めた福元一義によれば、「(手塚治虫は)日中戦争を扱った大地編というのをやりたいと。それからアトムのオールキャストみたいな格好で火の鳥を締め括ろうというお話でした」と語る。 手塚治虫の息子である手塚眞はある時、火の鳥の最終話について編集者にそっと耳打ちしたという。編集者は「あれは過去、未来と話が行ったり来たりして、最後に現代に近いところで終わるんだよ。そう、アトムが誕生する頃にね。」と語ったという。 火の鳥が連載していたマンガ少年の編集者である松岡博治は、「あの完結編の話でしょ?直接、先生から聞いていました。過去未来、過去未来、過去未来ってきてですね、2003年、アトムの誕生の年に過去と未来がクロスして完結するという。アトムも、ブラック・ジャックも、三つ目も、先生のキャラクターが何もかも出てきて…」と雑誌のインタビューで語る。 (ただし、上記の証言では再生編(仮)を火の鳥の完結と語っているが、下記で解説する現代編の内容とは異なる。手塚は最終作である現代編を上記の後、死ぬ直前に描くことを生前にほのめかしていた。上記のアイデアはゲーム「ASTRO BOY・鉄腕アトム -アトムハートの秘密-」や小説「火の鳥アトム編」等に生かされている。) 現代編(構想のみ) 初出:『「火の鳥」と私』(1968年12月)、その他にも証言複数あり。 手塚治虫は雑誌「COM」以降の火の鳥の全体構成を、黎明編と未来編を発表した後、過去、未来、過去、未来、と時間を現代に収束させる予定で描いた(太陽編は2つの時代が描かれているが最終的に過去側は未来側の物語に組み込まれる)。 1968年の虫プロ商事から発行された火の鳥未来編の単行本のあとがきでは手塚は次のように語っている。「私は、新しいこころみとして、一本の長い物語をはじめと終わりから描き始めるという冒険をしてみたかったのです。」「最後には未来と過去の結ぶ点、つまり現代を描くことで終わるのです。それが、それまでの話の結論に結びつき、それが終わると、黎明編から長い長い一貫したドラマになるわけです。したがって、そのひとつひとつの話は、てんでんばらばらでまったく関連がないように見えますが、最後にひとつにつながってみたときに、はじめてすべての話が、じつは長い物語の一部にすぎなかったということがわかるしくみになっています。」 後に『ニュータイプ100%コレクション 火の鳥』(角川書店/1986年刊行)の角川春樹との対談の中で、手塚治虫自身が「現代編」の構想を明かしている。手塚は「現代」というものは常に浮遊しており、読者から見た「現代」と作者が描いている時点の「現代」のズレが生じる問題を角川に伝えている。火の鳥という作品は1950年代から描かれているが、この対談時ですら1950年代は「現代」ではなくはるか「過去」になっている。 そこで手塚は「現代」というものの解釈を「自分の体から魂が離れる時」だとしていた(手塚にとってそれ以降の未来がなく、そこから以前は全て過去であるため。「未来も無く過去しかない=現代」)。 そして、その時こそ「現代編」を描く時だと語った。 それを聞いた角川は手塚に対して「死ぬ時ですからね。描けませんよ(笑)」と語り、手塚は「いや、僕は描いて見せますよ」「一コマでもいいんですよね。それが一つの話になっていればいいんですから」と死ぬ直前に一コマでも物語を描くことを約束している。 毎日新聞デジタル(2012年07月23日)でのインタビューにおいて聖悠紀は「手塚先生は『火の鳥で、過去の話を書いたら、未来の話を書いて、次の過去の話と、だんだん時代の間隔が短くなって、最後は原稿を書いている自分の部屋で終わりたい』とおっしゃっていた」と述べている。 雑誌COM版の「火の鳥 休憩 INTERMISSION」の後に削られた3ページには、火の鳥はどういう存在かを語り、火の鳥の結末はいつ発表するかを語っていた。具体的には「火の鳥は生命から生命へと媒介するエネルギーのようなもの」「火の鳥の結末はぼくが死ぬ時に発表する」という内容等であった。手塚が「自分と似たシワクチャな年寄りの夢を見る」ということも意味深に明かし、鼻が手塚の似顔絵程度に大きいシルエットの人物も描かれている。 角川との対談で「僕の中にあるエネルギー体が"羽化"するときに現代編を描く」ということも語っている。削られた「休憩」の最後の一コマでは布団に頭から足まで包まれて横になった手塚からこの漫画を象徴する存在が手塚と重なるように描かれていた。 手塚は胃癌で死ぬ直前の昏睡状態の時でも「鉛筆をくれ…」とうわ言を言っており、手塚の死に立ち会った手塚プロの松谷孝征社長によると手塚の最後の言葉は「頼むから仕事をさせてくれ」であったという。この時、手塚は息子である手塚眞がペンを渡すと握りしめるという動作までは行っている。 上記とは別に手塚が胃癌中の病院のベッドで手がけた作品「舞台劇 火の鳥」が存在し、この舞台劇が公開された1989年2月8日の翌日に手塚は亡くなっている。この舞台劇の時代背景は西暦2001年である。
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