執筆とアカデミア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 05:32 UTC 版)
1742年、友人のリチャード・ウェストが亡くなってから、グレイは真剣に詩を書き始めた。ケンブリッジで、自ら課した文学研究のプログラムを始め、当代きっての学者になったが、グレイは好きなことをやって怠けているだけと言った。まずピーターハウスの、それからペンブルック・カレッジのフェローになった。カレッジを変えたのは悪ふざけの結果だと言われている。 グレイは生涯のほとんどをケンブリッジで学者として過ごした。旅行も晩年にもう一度しただけだった。詩人としては、僅かの詩しか作らなかったが(存命中に出版されたグレイの詩集を全部集めても1000行に満たない)、18世紀中期の代表的な詩人と見なされている。1757年、グレイに桂冠詩人の話があったが辞退した。1768年、ローレンス・ブロケット(Lawrence Brockett)の後を継いで、ケンブリッジの歴史学欽定講座教授(Regius Professor of Modern History)(名誉職)となった。 グレイは自分に批判的で、また失敗を恐れたため、存命中には13の詩を発表したのみだった。一度、自分の詩集が「ノミの作品と間違えられたら」どうしようと書いたことがある。ウォルポールは「彼はユーモアは書いたが安易なものは一度も書いたことがない」と言った。
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