戦国時代から没落までとは? わかりやすく解説

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戦国時代から没落まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 00:55 UTC 版)

小寺氏」の記事における「戦国時代から没落まで」の解説

職治の子・豊職(とよもと)は、赤松家再興のために長禄2年1448年)、後南朝神璽奪回長禄の変)に参加。その功で赤松政則室町幕府から加賀北半国の守護職に補され小室氏は、加賀守護だった富樫氏被官人抗争しての加賀支配従事した応仁の乱では赤松政則奉行人として活躍した。豊職の子・政隆(まさたか)は永正16年1519年)に新たに御着城築き姫路城は子の則職に譲った応仁の乱きっかけとして、世の中下剋上横行する戦国時代となり、赤松家中では守護代浦上氏台頭著しく守護赤松氏凌ぐほどになった。この時、小寺政隆は赤松氏属して浦上氏戦い享禄2年1529年庄山城で討死した。またこれに先立って永正17年1520年)、則職が美作国岩屋城襲撃させられているが、小寺軍は宗の重臣宇喜多能家撃退されている。このように小寺氏は、備前浦上氏や東播磨別所氏のように独立志向の高まる赤松重臣中でも主家赤松氏に従って行動している。政隆の死後御着城移った則職は播磨国内での数々戦い制して勢力拡大し西播磨の有力勢力成長した。特に則職は天文14年1545年)に御着城主を子の政職に譲り天正4年1578年)に没した。 やがて、東の織田、西の毛利の二大勢力が台頭してくると、政職は重臣小寺孝隆(後に黒田孝高官兵衛)と改名)の言に従い織田方に付く。その後毛利氏部将浦宗勝率い毛利軍五千人を千人の兵で撃退し織田信長から感状与えられる。この勝利は、後に秀吉軍師として竹中重治並び称された孝高の作戦よるものであったと『黒田家譜』にはあるが確たる証拠はない。しかし、三木城城主別所長治の裏切りや有岡城城主荒木村重の反乱などに動揺し毛利方に離反する。その後織田方の攻勢三木城有岡城落城すると、御着城捨てて備後の鞆へと逃亡し天正14年1584年)に没した。こうして、大名として小寺氏滅亡した

※この「戦国時代から没落まで」の解説は、「小寺氏」の解説の一部です。
「戦国時代から没落まで」を含む「小寺氏」の記事については、「小寺氏」の概要を参照ください。

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