戦国時代から没落まで
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職治の子・豊職(とよもと)は、赤松家再興のために長禄2年(1448年)、後南朝の神璽奪回(長禄の変)に参加。その功で赤松政則は室町幕府から加賀北半国の守護職に補され、小室氏は、加賀守護だった富樫氏被官人と抗争しての加賀支配に従事した。応仁の乱では赤松政則の奉行人として活躍した。豊職の子・政隆(まさたか)は永正16年(1519年)に新たに御着城を築き、姫路城は子の則職に譲った。 応仁の乱をきっかけとして、世の中は下剋上が横行する戦国時代となり、赤松家中では守護代浦上氏の台頭が著しく、守護の赤松氏を凌ぐほどになった。この時、小寺政隆は赤松氏に属して浦上氏と戦い、享禄2年(1529年)庄山城で討死した。またこれに先立って永正17年(1520年)、則職が美作国岩屋城を襲撃させられているが、小寺軍は村宗の重臣宇喜多能家に撃退されている。このように小寺氏は、備前の浦上氏や東播磨の別所氏のように独立志向の高まる赤松重臣の中でも主家赤松氏に従って行動している。政隆の死後、御着城に移った則職は播磨国内での数々の戦いを制して勢力を拡大し、西播磨の有力勢力に成長した。特に則職は天文14年(1545年)に御着城主を子の政職に譲り、天正4年(1578年)に没した。 やがて、東の織田、西の毛利の二大勢力が台頭してくると、政職は重臣・小寺孝隆(後に黒田孝高(官兵衛)と改名)の言に従い、織田方に付く。その後、毛利氏の部将浦宗勝が率いる毛利軍五千人を千人の兵で撃退し、織田信長から感状を与えられる。この勝利は、後に秀吉の軍師として竹中重治と並び称された孝高の作戦によるものであったと『黒田家譜』にはあるが確たる証拠はない。しかし、三木城城主別所長治の裏切りや有岡城城主荒木村重の反乱などに動揺し、毛利方に離反する。その後、織田方の攻勢で三木城と有岡城が落城すると、御着城を捨てて備後の鞆へと逃亡し、天正14年(1584年)に没した。こうして、大名としての小寺氏は滅亡した。
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