戦国時代と龍造寺氏による蓮池一帯の統一
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「蓮池町」の記事における「戦国時代と龍造寺氏による蓮池一帯の統一」の解説
しかし、やがて大内氏と少弐氏がともに勢力を衰えさせ、龍造寺隆信が登場すると勢力図が変わった。 天文22年(1553年)、龍造寺氏は崎村城(東犬塚)の犬塚氏を従え、蓮池城(小田城)の小田氏を攻めた。このときは激戦となり、犬塚氏の当主であり崎村城の城主の犬塚鑑直と、その弟の鑑貞がふたりとも討ち死にした。犬塚家では鑑直の子、犬塚鎮直が城主となり、周辺13村1000石を与えられた。この戦いのあと小田政光は城を開けて降伏し、龍造寺氏に恭順した。 このあと永禄元年(1558年)、龍造寺氏は勢福寺城(神埼市神埼町城原)の江上武種を攻めるにあたり、小田氏と犬塚氏に先鋒として江上氏攻撃を命じた。小田・犬塚の軍勢は少弐氏に支えられた江上氏の軍勢と戦闘になり、劣勢となった。小田政光は龍造寺隆信の本陣に援軍を求めたが、隆信はあえてこれに応じず見殺しにした。その結果、小田政光は討ち死にした。小田政光が死ぬと龍造寺隆信は小田城に軍勢を差し向けてこれを攻め落とし、小田城を奪った。 政光には鎮光という子がいたが、龍造寺隆信は永禄11年(1568年)にこれを多久へ退け、隆信の弟龍造寺長信を蓮池城主に据えた。さらに元亀2年(1571年)には、龍造寺隆信によって小田鎮光が謀殺され、一門の龍造寺家晴が蓮池城を任されるようになった。 江上武種は龍造寺氏と敵対と和睦を繰り返した。永禄12年(1569年)に大友宗麟が龍造寺氏を攻撃するために侵攻してくると、大友氏に寝返って龍造寺氏を攻めたが、のちに大友氏が退くと龍造寺氏に従うほかなくなった。このとき、龍造寺隆信は息子を江上武種の養子として送り込み、江上家種として江上氏の家督を継がせた。 大友宗麟の侵攻に際しては、犬塚氏は本家(東犬塚)と分家(西犬塚・直鳥)が分裂した。崎村城(東犬塚)の犬塚鎮直は龍造寺氏に味方し、蓮池城に近い西の蒲田江城(西犬塚)・犬塚尚重は大友氏に通じて龍造寺氏と敵対した。この結果、犬塚氏同士の戦いとなり、双方とも城主が戦死した。 このあと、龍造寺氏に敵対した西犬塚の蒲田江城は傍系(直鳥家)の犬塚鎮家が後を継いだが、まもなく後ろ盾の大友氏が退いてしまい、龍造寺氏によって蒲田江城から駆逐された。東犬塚・犬塚鎮直の遺児百十丸は、300町の知行を授けられて北茂安に移封された。こうして崎村城・蒲田江城のいずれも龍造寺氏の支配下に組み込まれ、まもなく崎村城・蒲田江城ともに廃城となった。 なお犬塚鎮家は、のちに龍造寺氏と有馬義純が藤津郡をめぐって敵対すると、龍造寺隆信によって配下に迎え入れられた。鎮家は有馬氏との戦いで功をあげ、犬塚盛家と改名して森岳城(島原城)を与えられた。
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