戦国時代と龍造寺氏による蓮池一帯の統一とは? わかりやすく解説

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戦国時代と龍造寺氏による蓮池一帯の統一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/08 19:25 UTC 版)

蓮池町」の記事における「戦国時代と龍造寺氏による蓮池一帯の統一」の解説

しかし、やがて大内氏少弐氏がともに勢力衰えさせ、龍造寺隆信登場する勢力図変わった天文22年1553年)、龍造寺氏崎村城(東犬塚)の犬塚氏従え蓮池城小田城)の小田氏攻めた。このときは激戦となり、犬塚氏当主であり崎村城城主犬塚直と、その弟の鑑貞ふたりとも討ち死にした犬塚家では鑑直の子犬塚鎮直が城主となり、周辺131000石を与えられた。この戦いのあと小田政光は城を開けて降伏し龍造寺氏恭順した。 このあと永禄元年1558年)、龍造寺氏勢福寺城神埼市神埼町城原)の江上武種攻めにあたり小田氏犬塚氏先鋒として江上氏攻撃命じた小田犬塚軍勢少弐氏支えられ江上氏軍勢戦闘になり、劣勢となった小田政光龍造寺隆信本陣援軍求めたが、隆信はあえてこれに応じ見殺しにした。その結果小田政光討ち死にした小田政光が死ぬと龍造寺隆信小田城軍勢差し向けてこれを攻め落とし小田城奪った。 政光には鎮光という子がいたが、龍造寺隆信永禄11年1568年)にこれを多久退け隆信の弟龍造寺長信蓮池城主に据えた。さらに元亀2年1571年)には、龍造寺隆信によって小田鎮光が謀殺され、一門龍造寺家晴蓮池城任されるようになった江上武種龍造寺氏敵対和睦繰り返した永禄12年1569年)に大友宗麟龍造寺氏攻撃するために侵攻してくると、大友氏寝返って龍造寺氏攻めたが、のちに大友氏が退くと龍造寺氏に従うほかなくなった。このとき、龍造寺隆信息子江上武種養子として送り込み江上家種として江上氏家督を継がせた。 大友宗麟侵攻に際しては、犬塚氏本家(東犬塚)と分家(西犬塚・直)が分裂した崎村城(東犬塚)の犬塚鎮直は龍造寺氏味方し蓮池城に近い西の蒲田江城(西犬塚)・犬塚尚重大友氏通じて龍造寺氏敵対した。この結果犬塚氏同士戦いとなり、双方とも城主戦死したこのあと龍造寺氏敵対した西犬塚蒲田江城傍系(直家)の犬塚鎮家が後を継いだが、まもなく後ろ盾大友氏退いてしまい、龍造寺氏によって蒲田江城から駆逐された。東犬塚犬塚鎮直の遺児百十丸は、300町の知行授けられて北茂安に移封された。こうして崎村城蒲田江城いずれも龍造寺氏支配下組み込まれ、まもなく崎村城蒲田江城ともに廃城となった。 なお犬塚鎮家は、のちに龍造寺氏有馬義純藤津郡めぐって敵対すると、龍造寺隆信によって配下迎え入れられた。鎮家は有馬氏との戦いで功をあげ、犬塚盛家と改名し森岳城島原城)を与えられた。

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