戦国時代と大仏殿炎上
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:24 UTC 版)
「東大寺の歴史」の記事における「戦国時代と大仏殿炎上」の解説
戦いの詳しい様子は東大寺大仏殿の戦いを参照。 永禄10年(1567年)、三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)は、筒井順慶とともに松永久秀と戦い、東大寺大仏殿に立てこもった。このとき松永久秀は多聞山城におり、激しく争った。この多聞山からの火、また、10月10日の松永久秀の焼き討ちもあって、一連の戦闘の結果、南都は般若寺、興福寺やその塔頭なども焼失したが、東大寺の被害もまた大きかった。戒壇院、浄土堂、中門堂、唐禅院、それに大仏殿などが焼け、残った堂宇の方が少ないほどだった。この後、大仏には覆いなく、雨ざらしのなか元禄再興までおかれた。 大和国山辺郡の土豪であった山田道安は、そんな大仏の惨状を見て、立ちあがったひとりである。永禄11年(1568年)、道安は仏頭の修繕をはじめ、元亀3年(1572年)に終えている。道安はその功績をたたえられ、綸旨も贈られた。 しかし、東大寺の再興が終ったわけではなかった。永禄11年(1568年)、洛北、堀川の西岸にあった阿弥陀寺の住職であった清玉は、綸旨あって勧進をおこなった。これに、織田信長や松永久秀、三好長逸も援助をしたが、戦乱もあり、事は遅々として進まなかった。この勧進の特徴として網野善彦は、大名の援助に依存する面の強いことをあげている。中世の勧進といえば、遍歴性が高く、社会活動を伴って庶民の信仰に頼るものという印象が強いが、戦国時代から安土桃山時代、勧進聖は「がんにん坊主」などと呼ばれ、貶められ差別を受ける傾向にあった。この清玉の勧進はその、網野の説く、「無縁」の原理の薄れていった時代を象徴しているといえる。 豊臣秀吉は奈良の大仏に代わる、新たな大仏の造立を計画し、京都に方広寺大仏(京の大仏)が造営されたが、東大寺大仏再建への着手は行われなかった。なお京の大仏は地震等の被害のため何度か再建されているが、寛政10年(1798年)に落雷で焼失するまでは、規模(大仏の高さ、大仏殿の面積と高さ)で、現在の東大寺大仏・大仏殿を上回っていた。
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