犬塚尚重とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 犬塚尚重の意味・解説 

犬塚尚重

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/13 15:10 UTC 版)

 
犬塚尚重
時代 戦国時代
生誕 不詳
死没 永禄12年3月27日1569年4月13日
別名 獅子王(渾名)
官位 民部大輔受領名
主君 少弐氏龍造寺隆信大友義鎮(宗麟)
氏族 犬塚氏
父母 父:犬塚元重または犬塚家重(犬塚民部大輔)
正室:不詳、
継室:龍造寺周家の娘
家清、茂続
テンプレートを表示

犬塚 尚重(いぬづか なおしげ)は、戦国時代武将龍造寺氏大友氏の家臣。肥前国蒲田江城主。龍造寺隆信は義兄。

『北肥戦誌』は尚重を「獅子王」と呼ばれる程の勇将であったと記述する。

生涯

元は少弐氏の家臣。天文22年(1553年)、土橋栄益らによって肥前を追われていた龍造寺隆信が村中城を奪還し、その勢いで小田政光を攻めた際には、隆信が義兄であるにもかかわらず直鳥城の犬塚鎮尚と共に政光を助勢している。

永禄3年(1560年:永禄4年とも)、隆信により領地の蒲田江から追われるが、翌年に和睦し龍造寺氏に従属すると、元の領地への帰還が叶った。

しかし、永禄12年(1569年)に大友義鎮(宗麟)が龍造寺討伐軍を催し肥前へ入国すると、大友氏に鞍替えする。更に尚重は、同じ犬塚氏で隆信へ忠誠を誓う崎村城の犬塚鎮直を誘殺しようと企て、相談ありとして誘き寄せたが、謀略であると察した鎮直と家臣を交えての斬り合いとなり双方共に討ち死にした。

その後、鎮直の遺臣が兵を集めてすぐさま蒲田江城を攻め落としたため、尚重の継室は子と共に実弟・龍造寺長信の元へ逃れるが、長男の三郎家清は尚重の前室との子であるため、野心の者の子を援け置くべきにあらずとして鍋島信昌(後の鍋島直茂)により殺された。尚重の継室は横岳頼続へ再嫁し、尚重の次男は隆信に養育されると、初め龍造寺信尚、後に犬塚茂続と名乗った。

参考文献

  • 『北肥戦誌(九州治乱記)』



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「犬塚尚重」の関連用語

犬塚尚重のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



犬塚尚重のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの犬塚尚重 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS