龍造寺信周
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/14 07:05 UTC 版)
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文元年10月18日(1532年11月14日) |
死没 | 慶長13年8月15日(1608年9月23日) |
官位 | 安房守[1]、左馬頭 |
主君 | 龍造寺隆信、政家、高房、鍋島勝茂 |
藩 | 肥前佐賀藩 |
氏族 | 龍造寺氏(須古鍋島家) |
父母 | 龍造寺周家 |
兄弟 | 八戸宗暘室、隆信、信周、犬塚尚重継室、長信 |
子 | 信昭ら |
龍造寺 信周(りゅうぞうじ のぶかね[2]。 りゅうぞうじ のぶちか とも)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。須古鍋島家初代当主。兄の龍造寺隆信と共に各地を転戦し、武功を挙げたといわれている。
生涯
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天文元年(1532年)、龍造寺周家の次男として誕生。隆信の次弟だが、異母兄弟であったため、隆信と同母弟の長信より地位は低かったらしい。
元亀元年(1570年)に大友氏と龍造寺氏が戦った今山の戦い後、局地戦では大勝した龍造寺軍ではあったが、国内情勢は不安定であった為に、大友氏とこのまま抗争状態になるのは不利と判断。大友氏からの要請により、人質として大友氏へ派遣され、和議を成立させている。
天正12年(1584年)に沖田畷の戦いでの兄・隆信が戦死した後に須古城へ移り、豊臣秀吉の九州平定、朝鮮出兵などを経て、龍造寺氏から鍋島直茂への権力の移譲が進むと、この流れに従って、鍋島氏の肥前国支配体制を認めた。
龍造寺高房の龍造寺氏復権への動きに対し、幕府が事情聴取のために、信周と弟・長信[注釈 1]、龍造寺家晴の三人を江戸に招聘した際、三人は鍋島氏の肥前支配を認めたこともあり、鍋島氏の肥前支配は決定的となった。
なお、信周の子孫は須古鍋島家(龍造寺四家の一つ)として、佐賀鍋島家の重臣として明治維新を迎えた。
脚注
注釈
出典
- ^ 『北肥戦誌(九州治乱記)』の記述。
- ^ “りゅうぞうじ のぶかね”. 白石町. 2021年10月31日閲覧。
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