諫早茂門
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時代 | 江戸時代前期 |
生誕 | 寛文3年6月19日(1663年7月23日)[1] |
死没 | 延宝8年3月17日(1680年4月16日)[1] |
別名 | 主馬之佐、豊前 |
墓所 | 長崎県諫早市西小路町天祐寺 |
主君 | 鍋島光茂 |
藩 | 肥前佐賀藩 |
氏族 | 諫早鍋島家(諫早氏) |
父母 | 諫早茂真 |
兄弟 | 茂門、茂元ら |
子 | 茂元 |
諫早 茂門(いさはや しげかど)は、江戸時代前期の武士。肥前国佐賀藩士。諫早鍋島家(諫早氏)5代当主。
出自
龍造寺隆信の又従兄弟家晴の玄孫。藩主鍋島氏の旧主君龍造寺氏の一族で、鍋島氏を憚って諫早氏を称す。家紋は「上り藤」。代々藩主の偏諱を受け「茂」の字を拝領している。
龍造寺氏一族として、藩内で大名並みの知行二万六千石と強い影響力を持つ。祖父・諫早茂敬の生母は鍋島直茂三女・彦菊。
略歴
寛文3年(1663年)諫早邑主・諫早茂真の四男として誕生。寛文12年(1672年)8月6日、父・茂真が死去したため、四男ながら嫡出の男子として9月1日に家督を相続した。
延宝元年(1673年)にイングランド船「リターン号」が日英貿易の再開を求めて長崎に来航した際に、長崎港警備のために鉄砲隊を編成して諫早より派兵した。
延宝8年(1680年)3月17日死去。享年18。菩提寺の天祐寺に葬られた。家督は実弟・茂照(茂元)が相続。
諫早陣屋の設置
諫早家が代々城主を務めた諫早城を、茂門が元禄12年(1699年)に財政難で補修が困難との理由から、破却し東麓に新しく諫早陣屋を築いたとする文献[どれ?]が見られるが、延宝8年(1680年)に死去しており、元禄12年に諫早家の当主なのは7代茂晴である。
脚注
参考文献
- 長崎県の地名
- 小城藩日記データベース
- 諫早茂門のページへのリンク