多久茂明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/08 14:16 UTC 版)
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多久茂明
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時代 | 江戸時代 |
生誕 | 元禄6年10月16日(1693年11月13日) |
死没 | 元文4年8月20日(1739年9月22日) |
別名 | 因幡、美作 |
墓所 | 佐賀県佐賀市本庄町の慶誾寺 |
主君 | 吉茂→宗茂 |
藩 | 肥前佐賀藩 |
氏族 | 須古鍋島家→後多久氏(多久鍋島家) |
父母 | 父:鍋島茂清 養父:多久茂文 |
妻 | 正室:曽雄(多久茂文の娘) |
子 | 茂堯 |
多久 茂明(たく しげあき)は、江戸時代の武士。肥前国佐賀藩士。須古鍋島家7代当主。多久鍋島家(後多久氏)6代当主。
略歴
元禄6年(1693年)10月16日、須古鍋島茂清の子として生まれる。宝永2年(1705年)3月、父茂清の死去により須古家の家督を相続した。正徳4年(1714年)多久茂村が実家の小城鍋島家を相続することとなり、藩主鍋島吉茂の命により、叔父茂族に須古家の家督を譲り、正室の実家多久鍋島家(後多久氏)を相続した。
養父茂文の意思を継いで儒学を尊崇し、正徳5年(1715年)に茂文が建てた多久聖廟の祭費や文武稽古料として、領内花祭村、杵島村の内高200石を寄付し、享保7年(1722年)には椎原山を昌平山と改称し、聖廟補修の費用のため寄付した。享保8年(1723年)当役(請役家老)となる。
元文4年(1739年)8月20日死去。享年47。
系図
- 正室:曽雄 - 養父・多久茂文の次女
- 長男:茂堯
参考文献
- 小城郡教育会編『小城郡誌』 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- 小城藩日記データベース
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