龍造寺康家とは? わかりやすく解説

龍造寺康家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/08 15:26 UTC 版)

 
龍造寺康家
時代 室町時代中期 - 戦国時代
生誕 不明
死没 永正7年3月21日1510年4月29日[1]
改名 忠俊?/家満(初名)[2]、康家
別名 安家、二郎、隠岐入道
諡号 慶雲院[2]
戒名 定翁浄正居士[2]
墓所 佐賀県佐賀市本庄町の高伝寺
官位 右衛門大夫隠岐守
主君 九州千葉氏少弐氏
氏族 龍造寺氏
父母 父∶龍造寺家氏
母∶不明
兄弟 家貞、家正、定明、家次、康家
小鳥居信元娘
胤家、内田左京亮室、家和、澄覚、
大炊助、家兼、天亨
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龍造寺 康家(りゅうぞうじ やすいえ)は、室町時代中期から戦国時代にかけての武将龍造寺氏14代当主。

生涯

肥前国国人・龍造寺氏13代当主・龍造寺家氏の子として誕生。初名は忠俊[3]、又は家満。

肥前の有力大名である九州千葉氏少弐氏に従い、大内氏としばしば戦った。文明5年(1473年)、恵日山実琳院を再興し子・澄覚を住持としている[2]。文明17年(1485年)には肥前津町に押買や強盗等の禁制を発している[4]

明応年間(1492年から1501年)の末に隠居し[2]、家督を次男・家和に譲り[5]、自らは水ヶ江の地に新たな館を築き隠居所とした[2][6]永正2年(1505年)頃、剃髪し隠岐入道と号した[6]

永正7年(1510年)、死去。

康家没後、水ヶ江の館を継いだ五男・家兼は館を改修し水ヶ江城とした。これが水ヶ江龍造寺氏の始まりである。

脚注

  1. ^ 大日本史料』第9編之2 529頁
  2. ^ a b c d e f 『普聞集』
  3. ^ なお『龍造寺系図』では「文明五年再興實琳院・龍造敎寺、其頃號忠俊」と記載されている。
  4. ^ 『大日本史料』第8編之17 242頁
  5. ^ 嫡男・胤家は出奔している。
  6. ^ a b 『龍造寺系図』

出典

  • 『藤龍家譜』
  • 『龍造寺隆信譜』
  • 『普聞集』
  • 『龍造寺系図』




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