龍造寺氏一族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 05:02 UTC 版)
(数字は宗家当主順) 龍造寺季家 (高木季家) 龍造寺季益 龍造寺季友 龍造寺家清 龍造寺家益 龍造寺家親 龍造寺家種 龍造寺家政 龍造寺家是 龍造寺家治 龍造寺康秀 龍造寺家秀 龍造寺家氏 龍造寺康家:家兼の父 龍造寺胤家:家兼の兄、康家の嫡男。家督継承後に出奔したため『龍造寺系図』では歴代に数えられていない 龍造寺家和:家兼の兄、胤家の弟 龍造寺胤和:家和の子、慶闇尼の父 龍造寺胤久:家和の子 龍造寺胤栄:胤久の嫡男 龍造寺隆信:家兼の曾孫、周家と慶闇尼の子 龍造寺政家:隆信の嫡男 龍造寺高房:政家の嫡男 龍造寺伯庵家(会津龍造寺、300石) 龍造寺季明(伯庵):高房の遺児 龍造寺光広(庄之助・勝之助):季明の子 龍造寺登 龍造寺内膳 龍造寺左門 龍造寺伯耆 龍造寺高虎(舎人):会津龍造寺氏当主。『文化5年蝦夷行詰・龍造寺舎人道記』を著す。 龍造寺源吾:舎人の子。会津龍造寺氏当主。戊辰戦争では城下、桜の馬場にて隠居組槍隊として戦死。 龍造寺国太郎:源吾の子。会津龍造寺氏最後の当主。天保7年(1836)生まれ。八月十八日の政変で長坂平太夫隊物頭として上京し、大垣藩を支援、戊辰戦争後も国太郎一族は東京に留まった。 龍造寺主膳家(白河→大和郡山→会津) 龍造寺主膳 :第21代龍造寺政家の第3子。甥の龍造寺季明(伯庵)の龍造寺復権運動に同調するも裁判に敗れ、正保元年に越後国村上藩本多氏の預かりとなる。その後本多氏の移封に従い白河藩に移住した。 龍造寺政信(平馬、原田政信):江上種弼の次男、母は龍造寺主膳の娘。祖父である白河藩士龍造寺主膳の養子となり継承。本多氏の移封に従い、宇都宮、大和郡山に移住する。宝蔵院流高田派の槍術を学ぶが、享保7年本多氏の廃絶により白河を離れ諸国を歴訪。元文元年に会津藩に出仕。原田政信と改称し会津藩の宝蔵院流高田派の祖となった。寛政5年(1793年)に刊行された『続近世畸人伝』(著:伴蒿蹊)に、大和郡山藩士時代の逸話が記されている。 龍造寺七郎治 龍造寺金吾:龍造寺七郎治の子。 龍造寺政之進 龍造寺帯刀 龍造寺豊太郎:安政2年2月29日生。福島県に出仕し、明治14年に四等巡査、明治17年に監獄書記兼看守長となる。 ※なお幻想小説家夢野久作や、その父杉山茂丸は、龍造寺隆信の子孫である。
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