龍造寺隆信全盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/16 14:46 UTC 版)
以降、龍造寺隆信の副将・鍋島直茂が登場してきたこともあり、隆信は肥前国の平定を進めた。隆信の版図は肥前国の他、筑後国、肥後国、筑前国、豊前国、対馬国、壱岐国まで及び、「五州二島の太守」を自称した。その一方で、龍造寺軍の中核部隊を担っていた石井氏からは、多くの戦死者を出した。隆信は、石井氏の忠節と犠牲に報い、石井氏に知行地の加増をたびたび行い、天正期には、1,180町歩(おおよそ11,800石)の広大な所領を有することとなった。この知行規模は、龍造寺一族、外様家臣を除き、家中第三位(一位は鍋島氏、二位は納富氏)の大身であった。 この頃、石井氏と鍋島氏の連携が一層強化される。元亀2年(1571年)、石井和泉守忠清の嫡男・兵部少輔常延の次女彦鶴姫(後の陽泰院)が鍋島直茂の正室に迎えられた他、天正7年(1579年)には、直茂の長女・伊勢龍姫(後の月窓院、母は前室高木氏)の婿養子として、石井安芸守信忠の嫡男で、彦鶴姫の大甥にあたる石井太郎五郎(後の鍋島茂里)が迎えられた。また、石井壱岐守茂利が直茂の実兄・鍋島信房の養女を娶るなど、石井氏と鍋島氏は一族化していった。
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