龍造寺隆信との確執
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 16:00 UTC 版)
鎮漣は龍造寺隆信に幕下の礼をとり、その筑後国進攻に全面的に協力する。しかし、やがて隆信と対立するようになった。隆信は天正9年(1581年)に2万の兵で柳川城を包囲するが、「柳川三年」という戯れ歌があるほどに難攻不落で知られた柳川城はなかなか落ちなかった。しかし長期の籠城で城兵も疲弊し、城内の兵糧も尽きたので、鎮漣は伯父の田尻鑑種の仲介により隆信と和睦し、鎮漣に隆信の娘(玉鶴姫)が嫁すことを約した(『九州治乱記』。婚儀の約束の時期についてはほかに、隆信が肥前国から追放され蒲池氏に保護された時期との説もある)。 柳川は隆信が九州中央へ進出するにあたって必要不可欠な地であったが、鎮漣は薩摩の島津氏への接近を図っていた。蒲池氏が島津の傘下に入ることを恐れた隆信は、家臣の鍋島直茂や、隆信に与していた田尻鑑種などと共に鎮漣の謀殺を画策する。柳川に使者を送り、龍造寺と蒲池の和解のしるしにと鎮漣を猿楽の宴席に誘った。
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