龍造寺氏の支配下へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/20 08:54 UTC 版)
今山の戦いの後も、元亀2年(1571年)、天正元年(1573年)、天正2年(1574年)と数度にわたり、多久や北方方面で貴明は龍造寺氏と戦っている。ところが、同年6月に養子・惟明が叛旗を翻したため、やむを得ず貴明は龍造寺隆信に救援を求め、惟明に勝利した。そして、貴明は龍造寺隆信に実子・晴明を人質に差し出している。 しかしながら、明くる天正3年(1575年)8月には早くも隆信との和議は破綻した。天正4年(1576年)3月には隆信が貴明の居城である塚崎城まで迫り、城に放火している。結局、天正5年(1577年)2月に再度貴明と隆信の和議が成立するが、これは貴明の実子・晴明(後の龍造寺家均)を隆信に養子に出す代わりに、隆信の三男である家信を貴明の娘・槌市と結婚させ貴明の養子とするというものであった。すなわち、隆信の勢力が拡大するに及び、その支配下に入らざるを得なくなったのである。 同年及び天正6年(1578年)に隆信に従って貴明と家信は大村に出陣し、大村純忠は天正6年(1578年)7月、ついに隆信に降伏した。天正11年死去。沖田畷の戦いで隆信が戦死する1年前のことであった。 死後5年目に当たる天正16年(1588年)に木像が作られ、武雄市貴明寺に伝えられている(武雄市重要文化財・彫刻)。かつては後世に施された白色主体の補彩で覆われていたが、平成22年度の修復によりこれを除去・古色仕上げを行い、当初の武将彫刻としての威厳を取り戻した。
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