龍造寺・鍋島両家の重臣とは? わかりやすく解説

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龍造寺・鍋島両家の重臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 02:12 UTC 版)

成富茂安」の記事における「龍造寺・鍋島両家の重臣」の解説

天正12年1584年)、沖田畷の戦い隆信戦死すると、その跡継ぎである龍造寺政家引き続き仕え事となる。やがて信安から「賢種」(ともたね)に改名するのだが、これは政家が「鎮賢」(しげとも)と名乗っていた頃に「賢」の字を与えられ名乗ったのである天正14年1586年)、政家名代として安芸国において小早川隆景に、大坂城において豊臣秀吉謁見する天正15年1587年)、九州平定の際には龍造寺軍に属して出陣する。その戦いぶりから秀吉始めとする諸将から一目置かれるうになる同年天草戦い出陣し加藤清正小西行長援護した功により、清正から甲冑賜るその後は、豊臣氏との外交を担うなど、次第家中重きを成すようになる文禄元年1592年)の文禄の役慶長2年1597年)の慶長の役では、龍造寺軍の先鋒務める。この頃から龍造寺氏筆頭家老鍋島直茂仕えるようになる。諱(名前)は、初名の信安から賢種を経て、茂種、そして茂安と名乗る事となるが、これは直茂から「茂」の字を与えられ名乗ったのである慶長5年1600年)、関ヶ原の戦いの際には、伏見城の戦い安濃津城の戦い出陣する。その後鍋島直茂・勝茂親子西軍から東軍寝返ったのに従い筑後国柳川城久留米城攻め落とす。この時、直茂に命じられ柳川城主である立花宗茂降伏勧めるために折衝役を務めた

※この「龍造寺・鍋島両家の重臣」の解説は、「成富茂安」の解説の一部です。
「龍造寺・鍋島両家の重臣」を含む「成富茂安」の記事については、「成富茂安」の概要を参照ください。

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