龍造寺氏に参陣し、大友、島津と戦う
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 18:30 UTC 版)
「西牟田氏」の記事における「龍造寺氏に参陣し、大友、島津と戦う」の解説
天正6年(1578年)、佐賀の龍造寺隆信が肥前を平定し筑後へ進出してくると、西牟田鎮豊をはじめ筑後の国人領主の多くはその麾下に参じた。 しかし大友氏は、筑後の支配権を回復すべく、しばしば大軍を差し向けたので、筑後の国人領主たちは龍造寺氏と大友氏の間で揺れ動いた。このような中、西牟田氏は一貫して龍造寺側に立っている。西牟田氏は、西牟田城から生津城、続いて城島城と、より堅固な居城をつくって、侵攻してくる大友氏と戦った。 天正12年(1584年)、龍造寺隆信が、島津・有馬の連合軍に島原半島で大敗すると、大友氏は失地回復の好機として、豊後から田原親家、朽網宗歴、志賀道輝らの率いる約7千を、筑前からは大友軍きっての猛将、戸次(立花)道雪・高橋紹運が率いる約5千の軍勢を筑後に送り込んできた。8月28日、城島城に拠った西牟田新助家親・同新右衛門家和も大友軍の猛攻を受けた。西牟田家親は、直ちに佐賀へ援兵を要請すると同時に大友勢を迎え撃ち、道雪の一族立花右衛門大夫が率いた兵のうち歴戦の勇士・安倍親常ら百余りを討ち取り、撃退した。「筑後将士軍談」には、このとき城島城に籠った西牟田勢は300ほどとあり、立花右衛門太夫に率いられた寄せ手は当初は約800であったが、味方の劣勢をみた道雪が増援部隊を送ったと記されている、「北肥戦誌」や「歴代鎮西志」は、立花、高橋両勢が合流し一斉に攻め寄せてきたという内容の記述をしている。 このときの勝利で、西牟田新助兄弟の勇名と城島城の堅固さとは、肥前・筑後・豊後のあいだに轟いたという。
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