龍造寺氏との和戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/08 01:56 UTC 版)
残党勢力との和睦が成立すると、龍造寺氏の攻勢が始まり、有馬氏と結び、龍造寺氏と和睦と離反を繰り返した。他方で、大友氏の凋落により波多氏は隣の筑前国にもしばしば進出している。 天正11年(1583年)もしくは天正5年(1577年)、正室であった青山采女正の娘と離別したともこのとき病死したとも言うが、龍造寺隆信の正室の娘で、於安(父は龍造寺胤栄)を室として迎えて従属の意を示す事になった。因みにこの女性が「秀の前」として後世知られる人物である。また親の別名とされる信時もこの頃に名乗ったものと思われる。 天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでは、有馬氏と龍造寺氏の双方が身内に当たるため関与を避け、どちらにも属さずに出陣していないが、ほぼ同時期に私怨から原田信種の領内に攻め込み、3月13日に鹿家合戦を起こして大敗した。隆信の死後は島津氏に通じ、原田氏・松浦氏などと抗争している。
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