龍造寺氏麾下
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実父は肥前松浦の草野鎮永(宗揚)。国衆である肥前草野氏は龍造寺氏に従属したため、永禄11年(1568年)頃より五郎は人質として佐賀に入った。 宗揚の兄・種門が惣領であったが讒言によって謀殺され、弟の親種が継いだものの天正2年(1574年)に大友宗麟に臼杵氏との抗争を責められ自害。その嫡子秀種もすでに戦死していたため、原田了栄(隆種)は、草野家に出ていた次男の子、つまり内孫を養嗣子として迎えた。五郎は原田姓に戻り、宗家の跡を継ぐことになった。同年、元服の際には龍造寺隆信より偏諱の授与を受けて信種と名乗り、同8年(1580年)には隆信の娘(実際には養女か)を妻として娶った。 天正10年(1582年)、信種は龍造寺氏の配下として飯盛城を拠点にして筑前西部の早良郡に勢力を伸ばしていたが、さらに筑紫広門と協力して那珂郡に侵入して砦を築き、兵300を入れて重臣・笠大炊介興長(りゅう おおいのすけ おきなが)を守将とした。同郡で大友方は山田純規が守る猫嶺城(猫峠城)だけであり、立花道雪は養子統虎を将として薦野増時や由布惟明(大炊)、小野鎮幸らを付けて、同城を守るために砦を攻撃させた。4月16日朝、那珂川を渡った立花勢1,000名は二手に分かれて砦を強襲し、原田勢の防戦を撃破して砦を焼いた。笠大炊介らは早良郡に退却した。(岩戸合戦) 天正12年(1584年)、信種は祖父・了栄の重臣達よりも実父の草野宗揚を頼みとして後見を任せて重用していたため、宗揚の専横に家臣団からは不満が上がっていた。信種もすでに後見が必要な年齢ではなく、他家より家中に口出ししてくることを原田の家臣達は快く思わず、草野を斬ろうという者すらあった。この家中分裂の状況を知った岸岳城主波多親(波多信時)は、原田を侮って国境の境をしばしば犯して所領を横領しようとしていたので、信種らは憤慨していた。3月3日の上巳(桃の節句)に祝儀の使者として波多時実(波多掃部助)という者が来て酒席となった際、笠大炊介・勘助(繁種)兄弟と口論となって激しく罵倒され、深江良治・鬼木清甫・有田宗良ら他の老臣が仲裁して帰ったが、波多親は従弟の時実が恥をかかされたと激怒し、3月12日に3,000の兵を持って侵攻。浜崎に草野への押さえとして1,000を残し、2,000を率いて波多親は鹿家(しかか)に陣を布くと、報復として笠大炊介の所領である七山口の民家を焼いて住民200余を殺戮した。これに対して信種も3,000の兵で出陣して吉井岳城に集結し、先手は吉井の浜に陣取った。13日、原田勢の先手1,500が浜伝いに前進して波多勢の先手1,000(波多時実)に襲いかかる。激戦となるが、その最中にさらに信種の後続も鹿家峠を越えて山手より襲いかかり、挟撃を受けた波多勢は敗走。郎党と共に踏み止まって奮戦した波多時実は、笠大炊介に討ち取られた。波多親が兵を再集結しているところに、信種は全軍でこれを攻撃。深江城より深江良治が、吉井城より吉井亮が出撃して加勢したので、波多勢は包囲攻撃を受けて潰走。波多親は突撃して信種と差し違えようとしたが、家臣に止められて、辛くも唐津に脱出した。(鹿家合戦) 他方、奇しくも波多親の鹿家侵攻と同じ3月12日に、龍造寺隆信も島原半島の神代海岸に出陣していて、これを迎え撃った島津家久・新納忠元・伊集院忠棟・赤星統家・有馬晴信らを将とする島津・有馬連合軍と24日に交戦したが、この沖田畷の戦いで龍造寺軍は大敗し、隆信も川上忠堅に首を獲られて討ち死にしてしまった。
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