家中分裂
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享徳の乱以降、東国の戦乱は本格的となり、いよいよ戦国の乱世へと突入した。宇都宮氏も祖父・宇都宮正綱や父・宇都宮成綱がそれまで自立的だった塩谷氏・笠間氏・上三川氏・壬生氏などの宇都宮一族を下野宇都宮氏当主への従属性を強めさせ、家臣化させることに成功している。これらによって忠綱が生まれた頃には既に宇都宮家中と呼ばれる宇都宮一族とその家臣らから構成される家臣団が形成されていた。宇都宮家中成立当初に力を持っていたのは芳賀氏であり、永正期には芳賀高勝が家中に強い影響力を有していた。父・宇都宮成綱は室町時代の度重なる内乱で没落した下野宇都宮氏を立て直すために尽力し、積極的に勢力拡大していた。 永正期になると、永正3年(1506年)、古河公方足利政氏と息子の足利高基が家督を巡って対立する永正の乱が勃発。父・成綱は古河公方家の争いに介入し、勢力の拡大を図った。父・宇都宮成綱は婿である足利高基を支持。忠綱も義兄弟である高基を支持していたが、筆頭家老の芳賀高勝は古河公方足利政氏を支持。権力者二人の意見が相違したことによって、宇都宮家中は大混乱し、家中は二つに分裂した。
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家中分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:18 UTC 版)
応仁の乱の最中に京極氏は当主・持清と嫡男の勝秀が立て続けに病死した為、跡目を決めなくてはならなくなった。持清は嫡孫である勝秀の次男・孫童子丸よりも勝秀の長男・乙童子丸を溺愛していたため、一族・家臣の中で意見が分かれる事になる。 そして、家督を巡り勝秀の嫡子・京極孫童子丸派と勝秀の庶子・京極乙童子丸派の間で争いが起こる。孫童子丸派には持清の三男・政経と一族出の近江守護代・多賀高忠が付き、乙童子丸派には持清の次男・政光と飛騨守護代・多賀清直が付いて、京極家中を巻き込んだ事態へと発展する。文明2年(1470年)に叔父・政経を後見役に孫童子丸が家督を継ぎ近江・飛騨・出雲・隠岐守護職に補任される。 しかし、御家騒動は収まらず乙童子丸派の政光と清直は文明2年9月に西軍へ寝返り、六角高頼と和睦して孫童子丸派への攻勢を強める(高頼の従兄の六角政堯は東軍に属した)。翌年の文明3年(1471年)に孫童子丸が夭折し、新たな跡目争いが起きる。
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