多久茂族とは? わかりやすく解説

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多久茂族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/18 14:50 UTC 版)

多久茂族
たく しげつぐ
多久茂族像(多久市郷土資料館蔵)
生年月日 1833年11月1日[注釈 1]
没年月日 (1884-12-20) 1884年12月20日(51歳没)[注釈 2]
配偶者 多久雍

在任期間 1872年7月4日 - 1872年8月15日

在任期間 1872年6月7日 - 1872年7月4日

浜松県権令
在任期間 1871年12月26日 - 1872年6月7日
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多久 茂族(たく しげつぐ、1833年11月1日天保4年9月20日[1][注釈 1]〉 - 1884年明治17年〉12月20日[1][注釈 2])は、江戸時代後期の武士明治時代前期の政治家肥前国佐賀藩重臣家の多久鍋島家(後多久氏)11代当主で、維新後は内政官僚となり、浜松県伊万里県佐賀県権令を歴任。

松千代(幼名)、美族(よしつぐ)、茂尚、長門と称された[1][2]

略歴

10代多久邑主・多久茂澄の長男として誕生[1]天保7年12月24日1837年1月30日)家督を相続[1]弘化4年5月1日1847年6月13日)元服し名を茂族と改めた[1][3]

嘉永元年(1848年長崎警備に従事[1][3]。武具方・御小物成方頭人、長崎仕組頭人、弘道館頭人を歴任[1]安政2年(1855年江戸桜田藩邸に入り翌年京都を経て帰国[1]元治元年(1864年)14代将軍・徳川家茂の上洛に伴い京都に赴任[1]。同年11月、長州征討に出陣[1]慶応4年5月1868年)多久領兵500名を率いて国許を出発し、下野国鎮撫のため宇都宮に布陣[1][3]会津城籠城戦ではアームストロング砲での砲撃の指揮を担当した[1][4]明治元年10月、降伏した松平容保父子、会津藩重臣5名の身柄の東京への護送も担当した[1]

明治元年12月7日1869年1月19日)明治政府に出仕し弁官・弁事局出仕となり、その後、少弁となる[3]。明治4年11月15日1871年12月26日)浜松県権令に就任。明治5年5月2日1872年6月7日)伊万里県権令に転任。大蔵省に県庁を伊万里から佐賀に移転することを願い出て、同年5月29日(7月4日)伊万里県が佐賀県に改称され引き続き権令を務め、同年7月12日(8月15日)に辞任した[1][3][5]

その後、旧佐賀藩士のため炭鉱開発、士族授産等に尽力した[4]

系譜

脚注

注釈

  1. ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻、33頁では「天保四、九、二生」。
  2. ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻、33頁では「明一七、一二、二二沒」。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p 『多久市史 人物編』75-77頁。
  2. ^ 『平成新修旧華族家系大成』下巻、33頁。
  3. ^ a b c d e 『佐賀県大百科事典』514頁。
  4. ^ a b 『幕末維新大人名事典』下巻、44頁。
  5. ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』100頁。

参考文献




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