加藤於兎丸
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ナビゲーションに移動 検索に移動加藤 於兎丸(かとう おとまる、1896年(明治29年)7月19日[1] - 1983年(昭和58年)8月11日[2])は、日本の内務・厚生官僚、実業家。官選県知事。
経歴
岐阜県益田郡下原村(現下呂市)出身。下原郷16ヶ村兼帯名主10代加藤三郎右衛門雅文の甥[3]である加藤市兵衛の五男として生まれる[4]。万延元年遣米使節随行員の加藤素毛[5]と父の市兵衛とは従兄にあたる[3]。
第一高等学校を卒業。1920年11月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し衛生局属となる[1][6]。
以後、山口県・栃木県・大阪府・京都府・岡山県で勤務、内務省地方局地方債課長、同行政課長、同大臣官房会計課長などを歴任[1]。
1939年4月、佐賀県知事に就任。同年7月の旱魃の対応に尽力。1940年4月、厚生省衛生局長に転任[1][4]。1942年10月、宮城県知事となる。戦時下の対応などに尽力。1943年7月に知事を退任し広島県参事官に就任[4][6]。同年に退官し、大政翼賛会団体局長となる[1][6]。戦後、公職追放となった[6]。
その後、大同コンクリート工業社長、同取締役相談役を務めた[2]。
著作
- 述『地方制度の改正に就て』群馬県町村長会、1935年。
- 『地方行政 下』〈自治行政叢書;第5巻〉常磐書房、1936年。
伝記
- 加藤於兎丸翁追悼記念誌編集委員会編『加藤於兎丸翁追悼記念誌』皆川迪夫、1985年。
脚注
参考文献
- 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
- 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。
- 日外アソシエーツ編『ジャパン WHO was WHO 物故者事典 1983-1987』日外アソシエーツ、1988年。
- 金山町誌編纂委員会編『金山町誌』金山町、1975年。
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