戦国時代の到来と毛利・大友氏の狭間で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/09 05:09 UTC 版)
「松山城 (豊前国)」の記事における「戦国時代の到来と毛利・大友氏の狭間で」の解説
しかし、陶隆房の謀反(大寧寺の変)で、大内氏当主・大内義隆は自害、1556年(弘治2年)には毛利氏に帰順した松山城主で豊前守護代であった杉重吉が大友義鎮配下・田原親宏の攻撃によって敗走、松山城は落城した。 防長経略によって大内領を併呑した中国地方の雄・毛利元就は大内領であった北九州への侵攻を開始、豊前国の要衝であった松山城を攻略して、勇将・天野隆重、杉氏の一族・杉重良を入れた。1562年(永禄5年)に松山城は大友氏の攻撃を受ける。しかし1563年(永禄6年)に、室町将軍・足利義輝の斡旋によって、毛利氏と大友氏の間に和睦が成り、松山城は大友氏に引き渡された。 その後は、長野祐盛(秋月種実の弟説あり)が城主となったが、毛利氏や大友氏が京都郡に侵攻するに及び、度々従属先を変え続けた。そのため、永禄末期から天正年間にかけて大友氏、毛利氏から大規模な討伐を受け、長野氏は零落した。また、1579年(天正7年)に杉重良が毛利氏に反旗を翻して、松山城を退去して蓑島城に入った。重良は高橋元種の攻撃を受けて討死した。嫡男の杉元良は毛利氏家臣として続いたが、豊前国支配に関わっていた杉氏は、ここにその豊前支配を終えた。1581年(天正9年)、毛利方であった長野祐盛が松山城に籠もる、同じ毛利方の高橋元種を攻撃する事態が起きた。
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