戦国時代の国土認識とは? わかりやすく解説

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戦国時代の国土認識

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:00 UTC 版)

戦国時代 (日本)」の記事における「戦国時代の国土認識」の解説

戦国時代初期大和興福寺別当尋尊は「大乗院寺社雑事記文明9年1478年12月10日条に、「就中天下の事、さらにもって目出度き子細これなし。近国においては近江美濃尾張遠江三河飛騨能登加賀越前大和河内、これらはことごとく御下知応ぜず年貢など一向に進上せざる国共なり。その外は紀州摂州越中和泉、これらは国中乱るゝの間、年貢などの事是非に及ばざる者なり。さて公方御下知国々播磨備前美作備中備後伊勢伊賀淡路四国などなり、一切御下知応ぜず守護の躰たらく、則躰においては御下知畏み入る由申し入れ遵行などこれをなすといえども守護代下在国の者、中々承引能はざる事共なり。よりて日本国は、ことごとく御下知に応ぜざるなり」と記し現在の中国四国近畿東海北陸を以て日本国ことごとくであるとしている。 一方戦国時代末の天正9年1581年)、織田信長毛利氏との決戦意思明らかにした際、「今度毛利家人数後巻として罷り出づるに付いては、信長御出馬を出だされ、東国西国人数膚を合せ、御一戦遂げられ悉く討ち果たし本朝滞りなく御心一つ任せらるべきの旨、上意にて、各其の覚悟仕り候」と語り東国織田領)と西国毛利領)を合わせれば本朝滞りない状態であるとしている。 豊臣政権期には国土認識について変化見られた。ルイス・フロイスは、九州平定前年天正14年1586年10月17日書簡では豊臣秀吉のことを「ほぼ全国君主」としていた。しかし九州平定翌年天正16年1588年)には秀吉を「日本全国絶対君主」「日本全国国王」と呼ぶようになっており、豊臣政権期には九州日本国一部認識されていたことがわかる。

※この「戦国時代の国土認識」の解説は、「戦国時代 (日本)」の解説の一部です。
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