江戸幕府の道路政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 08:02 UTC 版)
慶長9年2月に大久保長安その他に命じて街道の幅員を5間とし、路傍に榎樹を植え、1里=36町と決め、1里ごとに里堠を設け、各駅の駄賃を定めた。寛永10年に伝馬、継飛脚の制が定められた。各宿駅に人夫100人、馬100匹を常備し(百人百匹の制)、幕臣や大名などの往来に供した。これが寛永以後も行なわれたが、天明3年に品川駅吏からの建議を納れて、100人100匹の定員のなかから公用その他の準備として30人20匹を除き置き、平時は70人80匹を武家その他に供した(人馬七八遣の法)。この人馬は御朱印伝馬のみで、彼らは各宿駅で徴発し得た。この他に一般庶民が傭役し得る駄賃伝馬があり、各宿駅で250人200匹を常備する定めだったが、実際の員数は規定どおりの規模には至らなかった。このほかにも飛脚の制があった。 幕府は各宿駅で田租を免除し、飼馬の地を与え、継飛脚給米および問屋給米を支給し、宿手代に手当を与え、ときに金銭を貸与して、これを保護した。元禄年間には定助郷・加助郷の制を定めて宿駅の人馬を助けたが、負担は小さくなかった。 幕府はまた軍事上の理由から、相模国小田原にかかる酒匂川、駿河国府中(駿府)を挟む興津川と安倍川、駿河遠江国境の大井川の4河川は、橋梁を架けないどころか、渡船さえ禁止して、往来する者には川の中を徒歩で渉らせた。大河川の徒渉は難儀であり、その両岸には徒渉の補助を行う業者が繁栄した。雨で水位が上昇し流速が増すと、危険なため徒渉は禁止された(川止め)。しかしこれらの河川の上流域は全国有数の多雨地域であり、暖候期には川止めが頻発・長期化することもしばしばで、大名から庶民まで旅費がかさむ旅行者を苦しめた。 大井川に橋を架けずに歩行渡しとしたのは江戸城防衛を第一の目的としたためだと言われることがあるが、これとは別な理由もあり、川床に砂礫層が堆積しているために、安全な橋を架けるためには不可欠となる橋脚杭を深く打ち込むことが当時の未熟な土木技術では実現出来なかったことや、一旦歩行渡しに人足を雇用したことから経済的に川越人足という職業が定着して廃止することが困難になっていたためであることが明らかとなっている。
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