江戸幕府の明通商計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 18:32 UTC 版)
「沖縄県の歴史」の記事における「江戸幕府の明通商計画」の解説
豊臣秀吉は朝鮮出兵の際に、薩摩藩を通して琉球へ兵糧米の供出を厳命した。明の冊封国であったため尚寧王は一旦拒否するが、薩摩藩の仲介により要求された兵糧米の半分を供出し、役の兵站の一部を担う。1603年に江戸幕府が開かれると、幕府は中国大陸の明との交易再開を目指すようになる。また薩摩藩も度重なる普請、戦役などで窮乏する藩財政から琉球貿易の統制と奄美群島の奪取を志向する。 1602年(万暦30年・慶長7年)に仙台藩領内に琉球船が漂着、徳川家康は彼等を丁重に送還した。以後、家康への謝恩使の派遣と、日明貿易の仲介が薩摩藩を通して琉球王府に繰り返し要求されたが、時の尚寧王・王府は三司官・謝名親方の抗日思想に引きずられ、幕府や薩摩藩からの交渉を一貫して黙殺。これを受け、幕府は武力で承諾させることとし、薩摩藩島津公に対し琉球への侵攻を許す。琉球側は鬼島津義弘公、太守忠恒公からの最後通牒も重ねて黙殺、侵攻に至った。
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