江戸幕府の神祇制度と朝儀の復興
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「神道の歴史」の記事における「江戸幕府の神祇制度と朝儀の復興」の解説
戦乱の時代が終わり江戸時代が始まると、神社行政も再編された。幕府はまず、各神社のその時点での社領を安堵して「守護使不入」の特権を与えていったが、このうち将軍の朱印状を得たものは朱印地と呼ばれ、領主の黒印状を得たものは黒印地と呼ばれた。ただし、これにより認められたのは神社の収益権であり、土地の所有権は幕府のものとされた。また、幕府は将軍直属の役職として寺社奉行を設置し、老中所管の町奉行や勘定奉行を上回る三奉行の筆頭に位置させた。また、神祇の故実や祭儀の典礼を研究して寺社奉行の諮問に答える役職として寺社奉行所管の神道方も設置されて、吉川惟足以降吉川家が世襲した。他方、伊勢神宮を担当した山田奉行や、日光東照宮を担当した日光奉行など、特定神社には個別に奉行が当てられた。 1665年(寛文5年)には幕府は諸社禰宜神主法度を発布し、位階を有しない一般の神職が狩衣や衣冠などを着装する際には、吉田家が発布する神道裁許状を取得しなければならないとし、吉田家にほぼ全ての神職の管理権を与えることとなった。ただし、神宮や賀茂神社、春日大社、宇佐八幡宮、出雲大社、伏見稲荷大社など、従前より伝奏を通じて朝廷から位階を授与されてきた社家は、今後も吉田家によらず従来通りの方法をとることが承認された。その他、この法度では神職の職務怠慢への罰則、社領の売買禁止、社殿の修理義務などが記されている。 葬祭に関しては、幕府は宗門人別改帳の作成と合わせて檀那寺で行うことを強制し、人々は仏式での葬儀が義務付けられることになったが、吉田家や有力社の社家は寺社奉行の認める限り神式の葬祭が許可され、江戸中期になると神職らの間で檀家制度から離れる離檀運動が生じたことから政策が緩和され、神道裁許状を受けたもので、檀那寺と和解した者は神葬祭が認められた。この場合、寺ではなく神社がキリシタンでないことを証明したことから、「寺請」ではなく「神道請」と呼称された。 また、幕府は戦乱により中絶していた朝儀の一部再興も財政的に支援していった。後土御門天皇以来222年間中断していた大嘗祭は、東山天皇の代に再興され、桜町天皇以降恒常化した。新嘗祭も、大嘗祭復興の翌年の1688年(元禄元年)に再興された。また、奉幣使の一部も再興され、1744年(延享元年)には上七社への奉幣及び宇佐八幡宮と香椎宮への奉幣使が再興された。神嘗祭に際しての朝廷からの例幣使発遣は、1647年(正保4年)に後光明天皇の特旨により再興された。伊勢神宮の式年遷宮も中断していたが、これは慶光院の清順や周養の尽力で織豊政権期に再興されている。また、戦乱により焼失した神祇官は吉田神社の斎場所にある八神殿をもってこれに代えられ、神祇官そのものは再興されなかった。 また、修験道についても幕府は規制を設け、1613年(慶長18年)には「修験道法度」が発布され、山伏は当山派か本山派に属さなければならないものとし、そうでない山伏の活動を禁じた。これを機に、修験者たちは山岳に定住する者と里修験として地域に定住する者に二分化され、後者は庚申待などの民間信仰で指導的役割を果たした。
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