吉川惟足とは? わかりやすく解説

きっかわ‐これたり〔キツかは‐〕【吉川惟足】

読み方:きっかわこれたり

[1616〜1695]江戸前期神道家。姓は「よしかわ」とも読む。吉川神道創始者江戸の人。京都吉田神道学び江戸でその正統継承者自称一派立てる。諸大名信頼を得、幕府神道方となる。著「神代巻惟足抄」など。


よしかわ‐これたり〔よしかは‐〕【吉川惟足】

読み方:よしかわこれたり

きっかわこれたり(吉川惟足)


きっかわこれたり 【吉川惟足】

→ 吉川惟足

よしかわこれたる 【吉川惟足】


吉川惟足

読み方よしかわ これたる

江戸前期神道家吉川神道創始者江戸生。本姓は源、名は元成・従時、幼名千代松丸、通称五郎左衛門、号は視吾(あれみ)堂・相山隠士等。9才で江戸日本橋商家養子となったが、36才で隠居古典神道研究に入る。萩原兼従吉田神道学び一派を成す。和歌山藩主徳川頼宣に招かれ多く大名武士入門、特に会津藩保科正之吉川神道の熱心な信望者・保護者となった。後に、幕府神道方となる。著は『神代巻惟足抄』『日本神道学則』等多数元禄7年(1694)歿、79才。

吉川惟足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/13 04:13 UTC 版)

吉川 惟足(よしかわ/きっかわ これたり/これたる、元和2年(1616年) - 元禄7年11月16日1695年1月1日))は、江戸時代前期の神道家[1]吉川神道の創始者。初名は元成と称し、後に惟足と改め、その後、萩原兼従の門下に入ったおりに一字を取り、従時と称した[2]。号は視吾堂・相山隠山・相山隠士など称す。姓は「きっかわ」、名は「これたる」とも伝わる。


  1. ^ 平 1966, p. 3.
  2. ^ 土田 1932, p. 1.
  3. ^ a b 平 1966, p. 5.
  4. ^ 平 1966, p. 6.
  5. ^ 平 1966, p. 8.
  6. ^ 永沢 1986, p. 年譜.
  7. ^ 信政の教養 / 新編弘前市史”. 弘前市立弘前図書館. 2022年7月17日閲覧。
  8. ^ 河野省三 (1930). 神道の研究 (2 ed.). 森江書店. p. 324. doi:10.11501/1918474 


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