江戸幕府代官所の手代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 09:21 UTC 版)
手代は、地方(じかた)に精通した百姓・町人などから選ばれて採用された。江戸幕府の勘定所の正式な許可が必要であった。手代の多くは、村役人・町役人の子弟である。まず、書役(かきやく)として採用され、手代、そして元締手代へと昇進する。 優秀な手代は幕臣に登用されることもあった。例えば、岸本就実(きしもとなりよし、通称は武太夫、寛保2年(1742年)7月7日─文化7年(1810年)11月7日)がいる。岸本は、美作国の庄屋の子弟であったが、倉敷代官所の下役として採用され、さらに幕臣に登用された。のちに、下野国藤岡代官所・下野国真岡代官所などの代官となり、天明の大飢饉や農村荒廃に疲弊した農村の復興に励んだ。 手代の給料は、代官所の諸経費からの支出である。享保10年(1725年)以降は金20両五人扶持である。手代の上役である元締手代になると、金30両五人扶持である。
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