江戸幕府の検問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 04:19 UTC 版)
入鉄炮出女 詳細は「入鉄炮出女」を参照 近世の関所は、「入鉄砲と出女」を検問する所とされ、32か所あったとされている。幕府防衛のための江戸に流入する武器の取り締まりと、大名の奥方が人質の意味もあって江戸に留め置かれたため江戸から出る方向の女性が厳しく取り締まられた。また、人馬・物資も検査された。幕府により、元和2年(1616年)に関所に条目が発布され、寛永2年(1625年)に諸国の主要な関札が定められた。そして寛永8年(1631年)に、関所破りの罰則と関所破りを捕らえた者への褒賞規定が出された。 道中奉行支配下の街道に設置された新居関所(今切関所)、気賀、碓氷、木曽福島等の比較的往来の多い関所に共通して、江戸から関西方面に向かう婦女子の通行には留守居の証文、夜間通行には老中証文や宿場問屋の断書が必要だった。特に東海道の箱根関所や新居関所など、場所によっては江戸に向かう女性も厳しく取り締まられた。そのため、これら関所の詮議を避けるために、山道廻りをして旅をする女性たちもいた。 渡し場を拠点とした関所 「房川渡中田関所」および「新郷川俣関所」も参照 元和2年(1616年)家康の死後に、関東河川の定船場(松戸・市川・川俣・房川渡他、16ヶ所)に定め掟書がだされた。江戸を出る女人と手負いの者は取り締まりを厳重にしていた。 例えば、新郷川俣関所は利根川の渡し場を拠点に築いたものであったが、下流にあった利根川の房川渡場に置かれた房川渡中田関所、水戸街道の江戸川の渡し場に置かれた金町松戸関所、その下流の小岩市川関所と同様にその通過を取り締まった。
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