寛文期の土木工学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 10:06 UTC 版)
江戸期に入ると、用水開発が各藩で実施されるようになる。加賀藩では、藩主利常の代に板屋兵四郎の指揮によって寛永9年(1632年)に完成した辰巳用水が有名である。この時代に普及していた土木工事用測量儀が、町見盤(ちょうけんばん)と呼ばれる水平度合い測定器であり、辰巳用水開発に使用されたとする報告がある。離れて点在する複数地点の同一高さを、水平回転盤上に固定した照準穴を通して肉眼で確認するものである。現代のトランシットが備えている機能の一つであるが、町見盤は被測定物と周囲との明暗差が必要なため夜間にしか使用できない機器である。町見盤よりも原始的な水盛台(水準器)を用いたのではないかとする文献もある。しかし、加賀藩が町見盤や水盛盤を用水開発に用いたことを明記した史料は見つかっていない。内川の左岸に提灯を並べ、それらを右岸から眺めて長坂用水の開渠や隧道の連結点を定めたことを長坂土地改良区の会員が伝承していることから、長坂用水開発にも何らかの水準検出器が使用された可能性は高い。連結点が定まると、隧道掘削の場合はまず各連結点に横穴を掘り、各横穴から上流と下流へ向かって隧道本線を多点同時に掘り進めることが可能になる。これにより、工期が短縮されると同時に、掘った岩屑(ずり)の排出や用水点検などが容易になるなどのメリットがある。 長坂用水開発は利常も板屋兵四郎も死去した後に行われたが、計17箇所存在する隧道のなかでも、特に長坂用水上流の隧道に見られる多数の横穴は辰巳用水と同様であり、用水開発技術は辰巳用水以後も着実に工事関係者へ伝授されていたことがわかる。長坂用水開発の17年前、それまで禁止されていた紅毛流測量術と呼ばれる測量法の使用が幕府によって解禁された。これはオランダ経由で日本へ伝わり、磁石で方位を計測(羅針術)するもので、測定精度が高く地図などの縮図作成も可能になる技術である。金沢市の用水のなかでも比較的新しい長坂用水に、当時の先端技術と呼べる紅毛流測量術が採用されていた可能性があり、これが確認されれば辰巳用水にない価値があるとする文献があり注目される。いくつかの文献は、隧道掘削に用いられたはずのツルハシ、タガネ、玄能などの工具を、隧道のノミ跡や当時の史料から推測しているが、現代のゴーグルに相当するものが無い時代の目の保護方法などについて触れた史料や文献は見当たらず、工事技術については依然として謎が多い。唯一、岩屑(ずり)の排出にもっこを使用したことが長坂用水関連史料に明記されていることから、法師の隧道の小学生見学会ではもっこ棒を前後二人で担ぐ体験会を実施しており、特に男子児童に人気がある。
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