寛文噴火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:48 UTC 版)
文献記録に残る有珠山噴火のうち最大規模の噴火。松前藩が江戸幕府に提出した報告書『松前志摩在所山焼申儀注進之事』によると1663年(寛文3年)旧暦7月11日から13日まで微震が続いたのち、14日の明け方より山頂カルデラよりプリニー式噴火を開始し、膨大な量の焼石や火山灰を噴出した。山麓の家屋が焼かれ住民5人が死亡。活動は7月末まで続き、鳴動は東北の庄内地方にまで伝わった。さらに津軽の弘前でも鳴動に続いて天地が暗くなり、空から長さ3、4寸の毛が雪のように降ってきたという。これは火山噴出物の一種・ペレーの毛と考えられる。この噴火の噴出物は膨大な量で現在の壮瞥町で3 m、白老町では1 m の厚さに積もったほか、海面にも大量の噴出物が浮いて降り積もり、沖合2,700間(約5 km)まで陸地のようになった。さらに噴出物によって山頂南側開口部が再び閉塞され、山頂火口は現在のような臼状の地形となった。 この寛文噴火をはじめ、同時期の北海道の南西部では渡島駒ケ岳(1640年)、樽前山(1667年)と火山の大噴火が頻発していた。これら火山の降灰による環境悪化が、1669年に発生したアイヌの大規模蜂起「シャクシャインの戦い」の一因になった、との見解もある。
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