寛文年間の再建から寛政10年の焼失までとは? わかりやすく解説

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寛文年間の再建から寛政10年(1798年)の焼失まで(3代目大仏・2代目大仏殿)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:10 UTC 版)

京の大仏」の記事における「寛文年間再建から寛政10年(1798年)の焼失まで(3代目大仏2代目大仏殿)」の解説

先述のように損壊した2代目大仏にかわり、新しく3代目大仏造立されることになった時の妙法院門主尭恕法親王日記によれば寛文4年(1664年)3月29日武家(京都所司代か?)より大仏鋳造(造)から木造改めるよう命令があり、同日夜に仏師康祐訪問してきたという。歴史地震研究者西山昭仁は、2代目大仏解体され境外運び出されたのは寛文4年(1664年)4月としている。新し木造3代目大仏寛文7年(1667年)に落慶した。大仏再建時に地震損壊免れた大仏殿補修工事行われた妙法院大仏再建の経緯綴った洛東大仏殿修覆釈迦大像造営記』によれば江戸幕府大仏再建関与し京都所司代牧野親成指示のもと、仏師玄信大仏再建あたったという。 再建され3代目大仏の高さは「都名所図会によれば従前大仏同じく六丈三尺(約19m)で、東大寺大仏(14m)よりもかなり大きかった3代目大仏造立にあたり先行して藤村忠円により作られとされる大仏雛形(京都大雛形)が現存しており、東京国立博物館所蔵している。3代目大仏及び京都大雛形造立経緯については堺市博物館学芸員仏像研究者の張洋一考察がある。3代目大仏七条仏師造立したことは確実とされる誰が造立したかについては、仏師系統記した本朝大仏師正統系図末流によれば康祐とされ、妙法院公的見解である『洛東大仏殿修覆釈迦大像造営記』では玄信とされている。このような相違発生した理由について張の説では、玄信康祐配下であったとし、名義上の造立担当者康祐であったが、実際3代目大仏の製作は玄信委任したではないかとしている。「京都大雛形」については玄信の製作によるもので、弟子藤村忠円に譲られ伝世されるうちに藤村忠円作と誤認されたのではないかとする。なお『洛東大仏殿修覆釈迦大像造営記』によると、玄信3代目大仏製作の前に試作仏像作ったとされているが、それは現在大徳寺本尊となっている釈迦如来像とされる。『洛東大仏殿修覆釈迦大像造営記』及び大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、現在大徳寺仏殿安置されている本尊釈迦如来像は、玄信により試作品として製作された、方広寺3代目大仏模した像で、大仏造立後に寄進されものとする。『竜宝塔頭位次』では、玄信製作の釈迦如来像を、時の将軍徳川家綱より寄進されたとし、方広寺3代目大仏の1/10のサイズであるという。なお後述のように現在の方広寺本尊は、3代目大仏の1/10サイズとされるが、両者像容は趣を異にしている。 康祐玄信七条仏師造立した3代目大仏容姿について、彼らの持つ作風造立したので、2代目大仏とは異なっていたという。相国寺僧侶鳳林承章自著隔蓂記』に3代目大仏拝した感想記しており、「世間風聞之通、最前之像與相違也(世間風聞通り新しく造られ大仏印象異なっている)」としている。このように大仏再建の際に、旧像の作風に倣わず、仏師達の持つ作風造立してしまうケース過去にもあった。方広寺大仏造立される以前京都には、高さ4丈(約12m)の雲居寺大仏があり、それは東大寺大仏並び称されていた(応仁の乱焼失してからは再建されていない)。永享8年(1436年)に火災雲居寺大仏焼失したので、時の室町幕府将軍足利義教は、大仏再建命じた永享12年(1440年)に大仏は一旦完成するも、足利義教一目見るや否や先規異なるので不相応」とし、造り替え命じたという。先述のように方広寺3代目大仏は、先規に倣わず仏師達の持つ作風造立してしまい、旧像と容姿異なっていたが、雲居寺大仏のように発注者より造り替え命じられることはなかった。 1690年から92年来日したドイツ出身医師エンゲルベルト・ケンペル方広寺立ち寄りそれを日記記録する内容以下のとおりである。 大仏殿周囲は、道に沿った高い場所で、一番前広場は、高さに合わせて、ほとんど二間ばかり、四角大きな石で方形囲まれていた。また寺を取り巻いている回廊からは外は見えないが、内側開いている。その屋根は約三間の高さで、どの側も長さいっぱい二十本の丸いと、横は全て三本ずつ並んだ支えられている。入口の門は高い支柱立派な二重屋根持った建物である。その両側にある高さ一間台座の上に、ただひらひらする布を腰に巻き付けた黒く太った裸の、獅子のような姿をした身長四間もある勇士立像 [金剛力士像] が見えた。それらの一つ一つにはそれぞれ特別な味があるが、名匠肢体部分の釣合を大変上手く造り上げていた。この門のすぐ向かい敷地真ん中に寺の建物 [大仏殿] が立っていた。それは高さでは京都の町にある他の全ての建物しのいでいたし、それだけでなく私がこれまで日本中で見た最高のものであった。この建物には二重の屋根があり、92本の用いて建てられている。第一屋根の下まで続いている細長い幾つかの扉があって、ほとんどどこからでも出入りできる内部は一番上屋根の所まで吹抜になっていて、その屋根たくさんの変わったやり方繋ぎ合わせて固定してあり、朱色塗ってあった。高くて上の方は光が差さないので、ほとんど真っ暗である。寺の床は、これまでの普通の方法とは異なって四角形の石が敷き詰めてあったが、支柱 [金剛柵] はこれに反して木製で、何本かの角材寄せ合わせ太さ二間半あり、他の全ての木部同様に朱色塗ってあった。信じがたいくらいの大きさ全身張りした一体の仏像の他には、内部何一つ飾りはなかった。非常に大きく平らな手のひらには、畳三枚敷けるほどである。この仏像は牛のような長い耳をしていて、縮れ毛で額の前に黄金塗っていないほくろ [白毫] があり、頭には黄金の冠 [他の文献記録大仏の冠の記述はないので詳細不明] をかぶっていたが、それは第一屋根の上方の窓 [観相窓] を通して見ることができた。肩口はあらわで、胸と腹はひらひらする布で覆うようになっていた。右手は少し高く挙げ左手は体の前で開いていて、インド風に蓮の花中に座っていた。この蓮の花は、一緒に地中から伸びている石膏細工もう一つの花に囲まれていたが、両方とも床から二間ばかり高くなっていた。背後は丈の高い長方形型の装飾 [光背] で覆われていて、その幅は四本渡っていた。光背には、蓮の花座っている人間の形をした小さ仏像数個付いていた。しかし大仏そのものは非常に肩幅広く、肩が一本からもう一本まで及んでいて、我々が測った所では五間はあった。八角形の木の格子 [金剛柵] が、蓮の花台座回り囲んでいたので、真ん中の所では四本省かれていた。一重屋根のあるもう一つの門を出て、すぐそばにあった広場出たが、そこで驚くばかりの大きな鐘 [国家安康の鐘] を見せられた。その鐘は低い木の [鐘楼] の中にかっていて、厚さはたっぷり一指尺、高さは番所役人の持つほどあり、しかも周囲21フィートもあった。 ケンペル遺稿をもとに編さんされた『日本誌』に、2代目大仏殿の絵が掲載されるほか、3代目大仏全身描いたケンペルスケッチ現存しており、大英博物館所蔵されている。ケンペル描いた3代目大仏スケッチについて、彼の遺した手稿収集品大部分大英博物館所蔵されているが、歴史学者のボダルト=ベイリーが、膨大な所蔵品の中から発見したのであるスケッチには『日本誌』3代目大仏の図を掲載するとの覚書があるが、(理由定かでないが)結局掲載されることはなかった。 方広寺大仏は、江戸時代中頃には人気観光地となった天下泰平の世が続き、(現代程ではないにせよ)旅行行きやすくなったこともそれを後押しした。『東海道中膝栗毛』では弥次喜多大仏見物して威容驚き手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さ描写されている 。なお初刊行1802年には、後述のように大仏・大仏殿は既に焼失している。また先述ケンペルのように長崎出島外国人も、江戸参府のおりに訪れる者が多かった朝鮮通信使一行江戸幕府案内当寺訪問しているが、「秀吉の寺」として、また秀吉朝鮮出兵における朝鮮戦死者耳鼻埋葬した耳塚門前にあることから、訪問拒絶されるケースもあり、トラブル発展してしまうこともあった(海游録)。方広寺訪問拒絶した第9回朝鮮通信使一行対し一行随行していた雨森芳洲は「現在の方広寺徳川の世(江戸幕府成立後)に再建されたもので、豊臣秀吉とは無関係である」との弁明行ったが、詭弁だとして一蹴されてしまった。 戦国時代兵火損壊していた東大寺大仏江戸時代中期再建が行われた。貞享元年1685年)、公慶江戸幕府から勧進資金集め)の許可得て東大寺大仏再興尽力し元禄5年1692年)に大仏開眼供養が行われ、宝永6年1709年東大寺大仏殿落慶した。江戸時代再建東大寺大仏殿特徴として、観相窓(堂外から大仏拝顔できるようにする窓)が採用された点がある。大仏頭部位置合わせて観相窓があり、その上部に唐破風設けられている。この建築意匠豊臣秀頼造立2代目方広寺大仏殿確立されたもので、江戸時代再建にあたり東大寺大仏殿にも取り入れられとされるそれ以前東大寺大仏殿には観相窓は設けられていないとするのが通説である。また東大寺大仏殿材について、寄木材(鉄輪固定した集成材)となっているが、この技法2代目方広寺大仏殿確立されたものとされ、東大寺大仏殿にも取り入れられとされる豊臣秀吉による方広寺初代大仏殿造営時に日本各地材に適した巨木伐採しつくしたため、森林資源枯渇したようであり、苦肉の策と言える。かつての2代目大仏殿遺物として、寄木束ねていた鉄輪は、方広寺鐘楼京都国立博物館庭園保存されている。 宝永6年1709年)から寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に、大仏大仏殿が双立していた。江戸時代中期国学者本居宣長は、双方大仏実見しており、感想日記残している(在京日記)。方広寺大仏については「此仏(大仏)のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也」、東大寺大仏大仏殿については「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし[東大寺大仏殿方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、高く見えて格好良いの意か?]」「所のさま(立地周囲景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也」としている。また両者の相違点として、東大寺には大仏の脇に脇侍安置されている点を挙げており、方広寺大仏には脇侍はなかったようである。 京都史上最悪大火とされる天明8年1788年)の天明の大火では焼失免れたが、寛政10年1798年)の旧暦7月1日(新暦では8月12日)の夜に大仏殿落雷があり、それにより火災発生し、翌2日まで燃え続け2代目大仏殿3代目大仏灰燼かいじん)に帰した火災による大仏殿からの火の粉類焼発生し仁王門回廊焼失した。なお「国家安康」の梵鐘や、方広寺境内組み込まれていた三十三間堂類焼免れた大仏殿はその巨大さゆえに落雷被害に遭う確率高く安永4年1775年)にも落雷受けたが、全焼免れていた(続史愚抄)。 落雷による焼失過程大田南畝とされる半日閑話(街談録)』や、平戸藩藩主松浦清著した『甲子夜話』記述されるほか、『洛東大仏殿出火図(国際日本文化研究センター所蔵)』に絵図記録されている。その絵図では火消し達が懸命に消火活動にあたる姿も描かれているが、当時竜吐水など性能の低い放水設備しかなく、破壊消火不可能なため、初期消火に失敗し、大火となった大規模に燃え広がってしまったので、自身所有する放水設備のみならず本願寺より大水鉄砲貸与を受け、放水試みたとされるが、先述のように当時放水設備には性能限界があり、焼け石に水であった2日には大仏殿より炎が高く立ち登って京都市街からも確認でき、日中火災による黒煙太陽光遮られ暗闇のようであったという。火事知らせ早鐘乱打され、再び天明の大火のような大火になるのではと、京都人びと震撼させたが、不幸中の幸い2日無風のため、敷地外火の粉飛び散らず、市街燃え広がらなかった。「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅心地にて京中貴賎老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙催し、ただ合掌十念唱えしばかり也」「衆口斉唱南無(毘盧遮那)仏」などと記録した文献類もあり、それらによれば焼けた柱棟堂内落下して3代目大仏像に寄りかかり大仏は鼻から出火火災現場集まった僧侶火消京都民衆達は、焼け落ちゆく大仏前に悲涙流し合掌をし、「南無(毘盧遮那)仏」と何度も唱えながら、3代目大仏最期見届けた。なお治承4年(1181年)の平家による南都焼討での東大寺大仏殿火災では、大仏殿取り残された者や、東大寺大仏殉じて炎に飛び込んだ者が落命たとするが、方広寺大仏殿火災では幸いなことに、そのような人的被害(死者)は記録されていない。ただし消火活動中に高所から落下して負傷した者があったという。 先述方広寺大火について、方広寺管理する妙法院の、有事の際の防火管理体制不備原因ではないかとする見解がある。前述のように大田南畝とされる半日閑話(街談録)』には、伝聞ではあるが、方広寺焼失時の出来事記述されており、それによれば概略以下の通りである。「7月1日の夜は大雨で、大仏殿北東隅に落雷があり、堂守落雷箇所に火のくすぶっているのを確認し太鼓鳴らして火消召集した竜吐水放水届かない高所のため即席足場組み、火を打ち消したその後外を見廻り火の手ないよう見えたので火消引き上げた。しかし火は完全に消えておらず棟木燃え始めた。そのため再び太鼓鳴らして火消召集したが、屋根板の裏面へ火が廻ってしまい、消火諦め退避した。」「仁王門安置されていた巨大な仁王像について、火の手が回る前に持ち出そう試みたが、地震対策のため鎖で仁王門緊結されており、鎖を取り外すそうと、もたもたとしている間に仁王像は火に飲み込まれた。」上記について、見方によれば大仏殿消火は可能であった考えられるし、仁王像搬出も可能であったとも考えられる歴史学者妙法院史料研究者の村山修一は、方広寺大仏殿当時防火管理体制について「(半日閑話等の記述正しいとすれば)平素より火災への対策皆無等しく、せめて屋根裏登る階段足場用意しておけば屋根裏の火を見逃すことはなかったのではなかろうか。また仏像搬出多少は可能であったろう。当時消火技術大災害に追付けなかったことは認められるとしても被害最小限抑える工夫足りなかったのは失態というほかはない。(補注:現存する設計図及び各種文献記録から、方広寺大仏殿天井板張られておらず屋根板現しで、屋根裏空間存在しないとされる。その点については村山誤認思われる)」と批判している。一方で村山は、方広寺大仏殿経年劣化修繕多額の費用要するようになり、その捻出妙法院四苦八苦していたこと、妙法院江戸幕府(京都所司代)に対し大仏殿修繕工事費用の融資を度々依頼していたことから、皇族門主務め門跡寺院とはいえ、一民間寺院である妙法院が、方広寺大仏殿のような巨大建造物維持管理するのは大変な困難を極めていたともしている。江戸期寺社知行(領地)について興福寺増上寺など1万石を越え寺社もあるなか、妙法院知行は約1,600であった。これは東大寺知行約2,000石をも下回る先述のように『甲子夜話』にも方広寺大火についての記述がある。それは東福寺の僧印宗より聞いた話としている。概略以下の通りであるが、『半日閑話』の記述相反する部分もある。『甲子夜話』では、7月1日夜は雷鳴とどろいていたが、落雷2日八つ時(午前1時)にあり、大仏殿北西隅に落ちたとする。大火原因については、『半日閑話』の記述のような火消の火の消し漏れではなく出火点が高所のため簡単に消火できず、足場設けた頃には火が他所へも移ってしまったためとする。2日の朝六つ半(午前5時)過ぎ頃、(屋根に火が回ったためか)屋根瓦一部落ち、火の勢いがますます盛んになったが、組物垂木直ぐに焼け落ちなかった。しかし屋根材堂内への落下起こり始めこの頃大仏燃えたとする。この時の方広寺大仏殿から立ち上る炎は東福寺からも見えたという。『半日閑話』の記述異なって落雷があってから降り始めたとし、それは大変な豪雨であったが、大仏殿屋内側で火が燃え広がってしまったので火の勢い弱めることはできなかったとする。朝五つ時(午前6時半)頃に小降りになり、四つ時(午前9時)頃に止んだ四つ半(午前10時半)頃に大仏殿屋根焼け落ち九つ半(午後1時)過ぎには大仏殿崩れ去ったとしている。ただ大仏殿崩れ去った後も火はくすぶりつづけており、完全な鎮火までには時間要したという。なお仁王像が地震対策のため鎖で仁王門緊結されており、搬出できなかったという話は『甲子夜話』にも記録されている。『甲子夜話』では、2日八つ時(午前1時)の出火から日中過まで大仏殿火災崩壊しなかったのは、一本毎に数個鉄輪固め横架材巨大なかすがい頑丈に固定してあったことが、その大きな要因であろうとしている。 なお方広寺大火原因について先述有事の際の防火管理体制不備のほか、7月1日の夜は新月であったことも、消火活動をするにあたり不利になったと考えられる旧暦月の満ち欠け基準とする太陰太陽暦であり、新月1日(朔日)とする。そのため火災の発生した寛政10年1798年7月1日の夜は新月であり、暗闇消火活動妨げになった可能性がある。 時の妙法院門主真仁法親王は、方広寺大仏焼失させてしまったことに、管理者として罪悪感抱いていたとされ、焼失翌日より毎日大仏焼跡参詣して供養行い大仏再建御祈祷行い自身食事量減じて大仏対し懺悔の意を表した当時京都ランドマークになっていた大仏焼失は、人びと大きな衝撃与えた焼失後も往時大仏郷愁覚える者が多く横山華山作の花洛一覧図(木版摺)は、大仏焼失後の文化5年1808年)に出版京都鳥瞰図であるが、巨大な方広寺大仏殿があえて描かれている。文久2年(1862年)刊行東山名所図会も、大仏焼失後の刊行であるが、こちらも往時方広寺大仏殿絵図があえて掲載されており、絵図中に寛政回禄の後、唯礎石のみ存るといへども、帝畿第一壮観廃れたるを慨歎に堪ず。故に旧図の侭を挙るなり。」との注記書がある。水木しげるの「幽霊画談」では、大仏焼失後、大阪寺町茂みが、往時大仏彷彿とさせると、大仏懐かしむ京都民衆の間で口こみが広がり当地訪問者連日賑わったとの逸話紹介されている (「仏の幽霊」ただし出典明記されていないため、文献記録に残る逸話か、もしくは水木伝聞した口承逸話描いたものかは不明)。また京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火焼けて三十三間堂焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン」というわらべ歌はこの時の火災のことを歌っている。 3代目大仏記録したエンゲルベルト・ケンペル肖像画。 [参考イメージ] 長楽寺 (兵庫県香美町)但馬大仏 高さ15mの木造坐像平成年間落慶であるが、現存するものでは国内最大木造坐像とされ、往時3代目木造大仏比肩する規模を誇る。 2代目大仏殿描いた絵図 観相窓(堂外から大仏拝顔できるようにする窓)があり、その上部に唐破風設けられているのが特徴である。このスタイル再建東大寺大仏殿にも採用された。 東大寺大仏殿観相窓と唐破風 都名所図会 大仏御餅所 門前餅屋売っていた「大仏餅」は「大仏」の文字型押しした餅で、大仏訪れた人々のよい土産となった

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