寛文年間の再建から寛政10年(1798年)の焼失まで(3代目大仏・2代目大仏殿)
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「京の大仏」の記事における「寛文年間の再建から寛政10年(1798年)の焼失まで(3代目大仏・2代目大仏殿)」の解説
先述のように損壊した2代目大仏にかわり、新しく3代目大仏が造立されることになった。時の妙法院門主尭恕法親王の日記によれば、寛文4年(1664年)3月29日に武家(京都所司代か?)より大仏を鋳造(銅造)から木造に改めるよう命令があり、同日夜に仏師康祐が訪問してきたという。歴史地震研究者の西山昭仁は、2代目大仏が解体され、境外に運び出されたのは寛文4年(1664年)4月としている。新しい木造の3代目大仏は寛文7年(1667年)に落慶した。大仏再建時に、地震で損壊を免れた大仏殿の補修工事も行われた。妙法院が大仏再建の経緯を綴った『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』によれば江戸幕府が大仏再建に関与し、京都所司代の牧野親成の指示のもと、仏師玄信が大仏再建にあたったという。 再建された3代目大仏の高さは「都名所図会」によれば従前の大仏と同じく六丈三尺(約19m)で、東大寺大仏(14m)よりもかなり大きかった。3代目大仏造立にあたり先行して藤村忠円により作られたとされる大仏の雛形(京都大仏雛形)が現存しており、東京国立博物館が所蔵している。3代目大仏及び京都大仏雛形の造立の経緯については堺市博物館学芸員で仏像研究者の張洋一の考察がある。3代目大仏は七条仏師が造立したことは確実とされる。誰が造立したかについては、仏師の系統を記した『本朝大仏師正統系図並末流』によれば康祐とされ、妙法院の公的見解である『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』では玄信とされている。このような相違が発生した理由について張の説では、玄信は康祐の配下であったとし、名義上の造立担当者は康祐であったが、実際の3代目大仏の製作は玄信に委任した為ではないかとしている。「京都大仏雛形」については玄信の製作によるもので、弟子の藤村忠円に譲られ、伝世されるうちに藤村忠円作と誤認されたのではないかとする。なお『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』によると、玄信は3代目大仏製作の前に試作の仏像を作ったとされているが、それは現在大徳寺の本尊となっている釈迦如来像とされる。『洛東大仏殿修覆並釈迦大像造営記』及び大徳寺側の史料である『竜宝塔頭位次』によると、現在大徳寺仏殿に安置されている本尊釈迦如来像は、玄信により試作品として製作された、方広寺3代目大仏を模した像で、大仏造立後に寄進されたものとする。『竜宝塔頭位次』では、玄信製作の釈迦如来像を、時の将軍徳川家綱より寄進されたとし、方広寺3代目大仏の1/10のサイズであるという。なお後述のように現在の方広寺本尊は、3代目大仏の1/10サイズの模像とされるが、両者の像容は趣を異にしている。 康祐、玄信ら七条仏師が造立した3代目大仏の容姿について、彼らの持つ作風で造立したので、2代目大仏とは異なっていたという。相国寺の僧侶鳳林承章は自著『隔蓂記』に3代目大仏を拝した感想を記しており、「世間風聞之通、最前之像與相違也(世間の風聞の通り、新しく造られた大仏は印象が異なっている)」としている。このように大仏再建の際に、旧像の作風に倣わず、仏師達の持つ作風で造立してしまうケースは過去にもあった。方広寺大仏が造立される以前の京都には、高さ4丈(約12m)の雲居寺大仏があり、それは東大寺大仏と並び称されていた(応仁の乱で焼失してからは再建されていない)。永享8年(1436年)に火災で雲居寺大仏が焼失したので、時の室町幕府将軍足利義教は、大仏の再建を命じた。永享12年(1440年)に大仏は一旦完成するも、足利義教は一目見るや否や「先規と異なるので不相応」とし、造り替えを命じたという。先述のように方広寺3代目大仏は、先規に倣わず仏師達の持つ作風で造立してしまい、旧像と容姿が異なっていたが、雲居寺大仏のように発注者より造り替えを命じられることはなかった。 1690年から92年に来日したドイツ出身の医師エンゲルベルト・ケンペルは方広寺に立ち寄りそれを日記に記録する。内容は以下のとおりである。 大仏殿の周囲は、道に沿った高い場所で、一番前の広場は、高さに合わせて、ほとんど二間ばかり、四角の大きな石で方形に囲まれていた。また寺を取り巻いている回廊からは外は見えないが、内側は開いている。その屋根は約三間の高さで、どの側も長さいっぱいに二十五本の丸い柱と、横は全て三本ずつ並んだ柱で支えられている。入口の門は高い支柱と立派な二重屋根を持った建物である。その両側にある高さ一間の台座の上に、ただひらひらする布を腰に巻き付けた、黒く太った裸の、獅子のような姿をした身長四間もある勇士の立像 [金剛力士像] が見えた。それらの一つ一つにはそれぞれ特別な意味があるが、名匠は肢体の部分の釣合を大変上手く造り上げていた。この門のすぐ向かいの敷地の真ん中に寺の建物 [大仏殿] が立っていた。それは高さでは京都の町にある他の全ての建物をしのいでいたし、それだけでなく私がこれまでに日本中で見た最高のものであった。この建物には二重の屋根があり、92本の柱を用いて建てられている。第一の屋根の下まで続いている細長い幾つかの扉があって、ほとんどどこからでも出入りできる。内部は一番上の屋根の所まで吹抜になっていて、その屋根はたくさんの梁を変わったやり方で繋ぎ合わせて固定してあり、梁は朱色に塗ってあった。高くて上の方は光が差さないので、ほとんど真っ暗である。寺の床は、これまでの普通の方法とは異なって、四角形の石が敷き詰めてあったが、支柱 [金剛柵] はこれに反して木製で、何本かの角材を寄せ合わせ、太さは二間半あり、他の全ての木部と同様に朱色に塗ってあった。信じがたいくらいの大きさで全身金張りした一体の仏像の他には、内部に何一つ飾りはなかった。非常に大きく平らな手のひらには、畳三枚が敷けるほどである。この仏像は牛のような長い耳をしていて、縮れ毛で額の前に黄金を塗っていないほくろ [白毫] があり、頭には黄金の冠 [他の文献記録に大仏の冠の記述はないので詳細不明] をかぶっていたが、それは第一の屋根の上方の窓 [観相窓] を通して見ることができた。肩口はあらわで、胸と腹はひらひらする布で覆うようになっていた。右手は少し高く挙げ、左手は体の前で開いていて、インド風に蓮の花の中に座っていた。この蓮の花は、葉と一緒に地中から伸びている石膏細工のもう一つの花に囲まれていたが、両方とも床から二間ばかり高くなっていた。背後は丈の高い長方形の葉型の装飾 [光背] で覆われていて、その幅は四本の柱に渡っていた。光背には、蓮の花に座っている人間の形をした小さい仏像が数個付いていた。しかし大仏そのものは非常に肩幅が広く、肩が一本の柱からもう一本の柱まで及んでいて、我々が測った所では五間はあった。八角形の木の格子 [金剛柵] が、蓮の花や台座の回りを囲んでいたので、真ん中の所では四本の柱が省かれていた。一重の屋根のあるもう一つの門を出て、すぐそばにあった広場に出たが、そこで驚くばかりの大きな鐘 [国家安康の鐘] を見せられた。その鐘は低い木の櫓 [鐘楼] の中に架かっていて、厚さはたっぷり一指尺、高さは番所役人の持つ槍ほどあり、しかも周囲は21フィートもあった。 ケンペルの遺稿をもとに編さんされた『日本誌』に、2代目大仏殿の絵が掲載されるほか、3代目大仏の全身を描いたケンペルのスケッチも現存しており、大英博物館に所蔵されている。ケンペルの描いた3代目大仏のスケッチについて、彼の遺した手稿や収集品は大部分が大英博物館に所蔵されているが、歴史学者のボダルト=ベイリーが、膨大な所蔵品の中から発見したものである。スケッチには『日本誌』に3代目大仏の図を掲載するとの覚書があるが、(理由は定かでないが)結局掲載されることはなかった。 方広寺大仏は、江戸時代中頃には人気の観光地となった。天下泰平の世が続き、(現代程ではないにせよ)旅行に行きやすくなったこともそれを後押しした。『東海道中膝栗毛』では弥次喜多が大仏を見物して威容に驚き「手のひらに畳が八枚敷ける」「鼻の穴から、傘をさした人が出入りできる」とその巨大さが描写されている 。なお初版刊行の1802年には、後述のように大仏・大仏殿は既に焼失している。また先述のケンペルのように長崎出島の外国人も、江戸参府のおりに訪れる者が多かった。朝鮮通信使一行も江戸幕府の案内で当寺を訪問しているが、「秀吉の寺」として、また秀吉の朝鮮出兵における朝鮮の戦死者の耳鼻を埋葬した耳塚が門前にあることから、訪問を拒絶されるケースもあり、トラブルに発展してしまうこともあった(海游録)。方広寺訪問を拒絶した第9回朝鮮通信使一行に対し、一行に随行していた雨森芳洲は「現在の方広寺は徳川の世(江戸幕府成立後)に再建されたもので、豊臣秀吉とは無関係である」との弁明を行ったが、詭弁だとして一蹴されてしまった。 戦国時代に兵火で損壊していた東大寺大仏も江戸時代中期に再建が行われた。貞享元年(1685年)、公慶は江戸幕府から勧進(資金集め)の許可を得て、東大寺大仏再興に尽力し、元禄5年(1692年)に大仏の開眼供養が行われ、宝永6年(1709年)東大寺大仏殿が落慶した。江戸時代再建の東大寺大仏殿の特徴として、観相窓(堂外から大仏を拝顔できるようにする窓)が採用された点がある。大仏の頭部の位置に合わせて観相窓があり、その上部に唐破風が設けられている。この建築意匠は豊臣秀頼造立の2代目方広寺大仏殿で確立されたもので、江戸時代に再建にあたり、東大寺大仏殿にも取り入れられたとされる。それ以前の東大寺大仏殿には観相窓は設けられていないとするのが通説である。また東大寺大仏殿の柱材について、寄木材(鉄輪で固定した集成材)となっているが、この技法も2代目方広寺大仏殿で確立されたものとされ、東大寺大仏殿にも取り入れられたとされる。豊臣秀吉による方広寺初代大仏殿造営時に、日本各地の柱材に適した巨木を伐採しつくしたため、森林資源が枯渇したようであり、苦肉の策と言える。かつての2代目大仏殿の遺物として、寄木柱を束ねていた鉄輪は、方広寺の鐘楼や京都国立博物館の庭園に保存されている。 宝永6年(1709年)から寛政10年(1798年)までは、京都(方広寺)と奈良(東大寺)に、大仏と大仏殿が双立していた。江戸時代中期の国学者本居宣長は、双方の大仏を実見しており、感想を日記に残している(在京日記)。方広寺大仏については「此仏(大仏)のおほき(大き)なることは、今さらいふもさらなれど、いつ見奉りても、めおとろく(目驚く)ばかり也」、東大寺大仏・大仏殿については「京のよりはやや(大仏)殿はせまく、(大)仏もすこしちいさく見え給う」「堂(大仏殿)も京のよりはちいさければ、高くみえてかっこうよし[東大寺大仏殿は方広寺大仏殿よりも横幅(間口)が狭いので、高く見えて格好良いの意か?]」「所のさま(立地・周囲の景色)は、京の大仏よりもはるかに景地よき所也」としている。また両者の相違点として、東大寺には大仏の脇に脇侍が安置されている点を挙げており、方広寺大仏には脇侍はなかったようである。 京都史上最悪の大火とされる、天明8年(1788年)の天明の大火では焼失を免れたが、寛政10年(1798年)の旧暦7月1日(新暦では8月12日)の夜に大仏殿に落雷があり、それにより火災が発生し、翌2日まで燃え続け、2代目大仏殿と3代目大仏は灰燼(かいじん)に帰した。火災による大仏殿からの火の粉で類焼も発生し、仁王門・回廊も焼失した。なお「国家安康」の梵鐘や、方広寺境内に組み込まれていた三十三間堂は類焼を免れた。大仏殿はその巨大さゆえに落雷の被害に遭う確率が高く、安永4年(1775年)にも落雷を受けたが、全焼は免れていた(続史愚抄)。 落雷による焼失の過程は大田南畝著とされる『半日閑話(街談録)』や、平戸藩藩主の松浦清が著した『甲子夜話』に記述されるほか、『洛東大仏殿出火図(国際日本文化研究センター所蔵)』に絵図で記録されている。その絵図では火消し達が懸命に消火活動にあたる姿も描かれているが、当時は竜吐水など性能の低い放水設備しかなく、破壊消火も不可能なため、初期消火に失敗し、大火となった。大規模に燃え広がってしまったので、自身の所有する放水設備のみならず、本願寺より大水鉄砲の貸与を受け、放水を試みたとされるが、先述のように当時の放水設備には性能に限界があり、焼け石に水であった。2日には大仏殿より炎が高く立ち登って京都市街からも確認でき、日中は火災による黒煙で太陽光が遮られ、暗闇のようであったという。火事を知らせる早鐘が乱打され、再び天明の大火のような大火になるのではと、京都の人びとを震撼させたが、不幸中の幸いか2日は無風のため、敷地外に火の粉は飛び散らず、市街へ燃え広がらなかった。「(大仏は)御鼻より火燃出、誠に入滅の心地にて京中の貴賎、老若、其外火消のもの駆け付け、此時に至りいたし方なく感涙を催し、ただ合掌十念唱えしばかり也」「衆口斉唱南無(毘盧遮那)仏」などと記録した文献類もあり、それらによれば、焼けた柱棟が堂内に落下して3代目大仏像に寄りかかり、大仏は鼻から出火。火災現場に集まった僧侶・火消・京都民衆達は、焼け落ちゆく大仏を前に、悲涙を流し、合掌をし、「南無(毘盧遮那)仏」と何度も唱えながら、3代目大仏の最期を見届けた。なお治承4年(1181年)の平家による南都焼討での東大寺大仏殿火災では、大仏殿に取り残された者や、東大寺大仏に殉じて炎に飛び込んだ者が落命したとするが、方広寺大仏殿の火災では幸いなことに、そのような人的被害(死者)は記録されていない。ただし消火活動中に高所から落下して、負傷した者があったという。 先述の方広寺大火について、方広寺を管理する妙法院の、有事の際の防火管理体制の不備が原因ではないかとする見解がある。前述のように大田南畝作とされる『半日閑話(街談録)』には、伝聞ではあるが、方広寺焼失時の出来事が記述されており、それによれば概略は以下の通りである。「7月1日の夜は大雨で、大仏殿北東隅に落雷があり、堂守が落雷箇所に火のくすぶっているのを確認し、太鼓を鳴らして火消を召集した。竜吐水の放水が届かない高所のため即席の足場を組み、火を打ち消した。その後外を見廻り、火の手はないように見えたので火消は引き上げた。しかし火は完全に消えておらず棟木が燃え始めた。そのため再び太鼓を鳴らして火消を召集したが、屋根板の裏面へ火が廻ってしまい、消火を諦め退避した。」「仁王門に安置されていた巨大な仁王像について、火の手が回る前に持ち出そうと試みたが、地震対策のため鎖で仁王門に緊結されており、鎖を取り外すそうと、もたもたとしている間に仁王像は火に飲み込まれた。」上記について、見方によれば大仏殿の消火は可能であったと考えられるし、仁王像の搬出も可能であったとも考えられる。歴史学者で妙法院史料研究者の村山修一は、方広寺大仏殿の当時の防火管理体制について「(半日閑話等の記述が正しいとすれば)平素より火災への対策が皆無に等しく、せめて屋根裏へ登る階段や足場を用意しておけば屋根裏の火を見逃すことはなかったのではなかろうか。また仏像搬出も多少は可能であったろう。当時の消火技術が大災害に追付けなかったことは認められるとしても被害を最小限に抑える工夫が足りなかったのは失態というほかはない。(補注:現存する設計図及び各種文献記録から、方広寺大仏殿に天井板は張られておらず屋根板現しで、屋根裏空間は存在しないとされる。その点については村山の誤認と思われる)」と批判している。一方で村山は、方広寺大仏殿は経年劣化で修繕に多額の費用を要するようになり、その捻出に妙法院が四苦八苦していたこと、妙法院が江戸幕府(京都所司代)に対し大仏殿修繕の工事費用の融資を度々依頼していたことから、皇族が門主を務める門跡寺院とはいえ、一民間寺院である妙法院が、方広寺大仏殿のような巨大建造物を維持管理するのは大変な困難を極めていたともしている。江戸期の寺社の知行(領地)について興福寺・増上寺など1万石を越える寺社もあるなか、妙法院の知行は約1,600石であった。これは東大寺の知行約2,000石をも下回る。 先述のように『甲子夜話』にも方広寺大火についての記述がある。それは東福寺の僧印宗より聞いた話としている。概略は以下の通りであるが、『半日閑話』の記述と相反する部分もある。『甲子夜話』では、7月1日夜は雷鳴がとどろいていたが、落雷は2日八つ時(午前1時)にあり、大仏殿の北西隅に落ちたとする。大火の原因については、『半日閑話』の記述のような、火消の火の消し漏れではなく、出火点が高所のため簡単に消火できず、足場を設けた頃には火が他所へも移ってしまったためとする。2日の朝六つ半(午前5時)過ぎ頃、(屋根に火が回ったためか)屋根瓦の一部が落ち、火の勢いがますます盛んになったが、組物や垂木は直ぐには焼け落ちなかった。しかし屋根材の堂内への落下が起こり始め、この頃大仏は燃えたとする。この時の方広寺大仏殿から立ち上る炎は東福寺からも見えたという。『半日閑話』の記述と異なって落雷があってから雨が降り始めたとし、それは大変な豪雨であったが、大仏殿屋内側で火が燃え広がってしまったので火の勢いを弱めることはできなかったとする。朝五つ時(午前6時半)頃に雨が小降りになり、四つ時(午前9時)頃に雨が止んだ。四つ半(午前10時半)頃に大仏殿の屋根が焼け落ち、九つ半(午後1時)過ぎには大仏殿が崩れ去ったとしている。ただ大仏殿が崩れ去った後も火はくすぶりつづけており、完全な鎮火までには時間を要したという。なお仁王像が地震対策のため鎖で仁王門に緊結されており、搬出できなかったという話は『甲子夜話』にも記録されている。『甲子夜話』では、2日八つ時(午前1時)の出火から日中過まで大仏殿が火災で崩壊しなかったのは、柱一本毎に数個の鉄輪で固め、横架材も巨大なかすがいで頑丈に固定してあったことが、その大きな要因であろうとしている。 なお方広寺大火の原因について、先述の有事の際の防火管理体制の不備のほか、7月1日の夜は新月であったことも、消火活動をするにあたり不利になったと考えられる。旧暦は月の満ち欠けを基準とする太陰太陽暦であり、新月を1日(朔日)とする。そのため火災の発生した寛政10年(1798年)7月1日の夜は新月であり、暗闇が消火活動の妨げになった可能性がある。 時の妙法院門主の真仁法親王は、方広寺大仏を焼失させてしまったことに、管理者として罪悪感を抱いていたとされ、焼失の翌日より毎日大仏の焼跡に参詣して供養を行い、大仏再建の御祈祷を行い、自身の食事量も減じて、大仏に対し懺悔の意を表した。 当時京都のランドマークになっていた大仏の焼失は、人びとに大きな衝撃を与えた。焼失後も往時の大仏に郷愁を覚える者が多く、横山華山作の花洛一覧図(木版摺)は、大仏焼失後の文化5年(1808年)に出版の京都の鳥瞰図であるが、巨大な方広寺大仏殿があえて描かれている。文久2年(1862年)刊行の東山名所図会も、大仏焼失後の刊行であるが、こちらも往時の方広寺大仏殿絵図があえて掲載されており、絵図中に「寛政中回禄の後、唯礎石のみ存るといへども、帝畿第一の壮観の廃れたるを慨歎に堪ず。故に旧図の侭を挙るなり。」との注記書がある。水木しげるの「幽霊画談」では、大仏の焼失後、大阪の寺町の松の茂みが、往時の大仏を彷彿とさせると、大仏を懐かしむ京都民衆の間で口こみが広がり、当地は訪問者で連日賑わったとの逸話が紹介されている (「仏の幽霊」ただし出典が明記されていないため、文献記録に残る逸話か、もしくは水木が伝聞した口承の逸話を描いたものかは不明)。また京都に伝わる「京の 京の 大仏つぁんは 天火で焼けてな 三十三間堂が 焼け残った ありゃドンドンドン こりゃドンドンドン」というわらべ歌はこの時の火災のことを歌っている。 3代目大仏を記録したエンゲルベルト・ケンペルの肖像画。 [参考イメージ] 長楽寺 (兵庫県香美町)の但馬大仏 高さ15mの木造坐像。平成年間の落慶であるが、現存するものでは国内最大の木造坐像とされ、往時の3代目木造大仏に比肩する規模を誇る。 2代目大仏殿を描いた絵図 観相窓(堂外から大仏を拝顔できるようにする窓)があり、その上部に唐破風が設けられているのが特徴である。このスタイルは再建東大寺大仏殿にも採用された。 東大寺大仏殿の観相窓と唐破風 都名所図会 大仏御餅所 門前の餅屋が売っていた「大仏餅」は「大仏」の文字を型押しした餅で、大仏を訪れた人々のよい土産となった。
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