前期西北統治
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1933年(民国22年)5月、西北地域の統制を図る蒋介石の命により、朱紹良は甘粛省政府主席に任ぜられ、8月には甘粛綏靖公署主任を兼ねた。朱は1935年(民国24年)に「地方自治人員訓練班」、1938年(民国25年)に「西北幹部訓練団」を設立するなどして、国民政府中央の統制浸透に尽力した。しかしアヘン取締には力を発揮せず、逆に大量栽培によって利益を得ようと図ったり、あるいは馬家軍に対抗するために孫殿英の軍を西北に招き入れて混乱を惹起したりするなどしている。 1935年(民国24年)2月、朱紹良は剿匪軍第3路総司令を兼任し、長征中の紅軍への迎撃体制を整えた。10月には西北剿匪第1路総指揮に任ぜられる。ところが同月20日に蘭州城内で火薬庫爆発事件が発生し、この責任をとる形で朱は甘粛省政府主席を辞任した。11月、国民党第5回全国代表大会で中央執行委員に選出されている。翌年12月、西安事変の際には、蒋介石と共に張学良・楊虎城に拘禁される憂き目にも遭った。 1937年(民国26年)の日中戦争(抗日戦争)勃発後は、朱紹良は第3戦区に異動し、第9集団軍総司令に任ぜられた。日本軍との戦いでは、蒋介石の持久戦指令を受ける形で積極的な攻勢にはほとんど出なかった。12月、第8戦区長官司令部が蘭州で成立したことに伴い、朱は再び西北に戻り、第8戦区副司令長官兼甘粛省政府主席となった。朱は蒋から中国共産党への圧力強化の任を委ねられ、翌年11月には第8戦区司令長官に昇進した。
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