日中友好の架け橋
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1960年に模範囚として釈放され、北京に帰る。翌1961年、妻の浩との再会を果たし、文化大革命を乗り越え、全国人民代表大会常務委員会委員や民族委員会(中国語版、英語版)副主任を務めるなど、社会への復帰を果たした。また、1972年の日中国交正常化の後、7度の訪日で日中友好の架け橋として活躍した。 1987年6月20日に、長年連れ添った妻の浩が北京の病院で死去した。溥傑はその後も日中友好の懸け橋として両国間で活躍し、1989年1月の昭和天皇崩御時には北京の日本大使館に弔問に訪れた。1991年10月28日には立命館大学より名誉法学博士の名誉学位を贈呈されている。1992年10月25日には在中国日本大使主催のレセプションで訪中した当時の天皇明仁と対面している。
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