日中共産党の路線対立の表面化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 20:43 UTC 版)
「日中共産党の関係」の記事における「日中共産党の路線対立の表面化」の解説
帰国した宮本は4月27日と4月28日に第四回中央委員会を招集。その席上宮本は「毛沢東は老衰して頭がぼけてしまっている。そのうえ思いあがって党内でも孤立している」と毛沢東を批判し、以降第10回党大会を目指して明確な反中路線に転換した。@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}毛沢東一派の極左冒険主義」への批判が『しんぶん赤旗』紙上に載るようになり、[要出典]「1966年から1967年(昭和42年)にかけては西沢隆二ら中国派の中堅幹部30数名が除名された。 中国共産党は宮本を「修正主義者」と認定し、日本共産党を「宮本修正主義集団」と批判するようになった。1966年10月には日中友好協会が日本共産党派と非日本共産党系で分裂し、後者は「日中友好協会正統本部」を結成した。続いて日本アジア・アフリカ連帯員会も日本共産党派と非日本共産党系に分裂した。日本ジャーナリスト会議や新日本婦人の会でも両派が対立し、分裂した。日本共産党の不破哲三は、中国共産党は日本共産党を日本の政界で孤立化させたり、内部分裂させるために他の政党との関係を利用した工作活動も行ったと主張している。
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