日中友好への思い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/17 13:33 UTC 版)
詠士は中国人を尊敬し、日中友好を強く望んだ。そして、「日中の真の友好はまず話し合うことだ。それには中国語の修得が必要だ。」と考え、『官話急就篇』を公刊し、善隣書院を創設した。ここには漢学者の中島竦が講師として迎えられモンゴル語と中国語を教えている。上條信山が、中国へ旅立つ青年を詠士のもとに連れていった時、詠士は即座に筆を執って一句を揮毫し、「中国は兄弟の国だ。一稼ぎしようというようなつまらない考えではいかん。中国の土となる心がけで行きなさい。」と激励したという。 詠士のところにはいつも日中の要人の往来が激しく、政界、財界、学界、軍人等の大官が中国問題について相談に来ていた。昭和12年(1937年)頃の夏、信山は偶然に詠士と山本五十六が離れ座敷で話しているのを目撃した。後年、信山は、「あくまでも中国との戦争を避けようと願った、あの日の対座のお姿は今も私の眼底に焼きついている。」と記している。 日中戦争勃発直後に中野正剛の紹介状を持った木村東介が仲間を連れて詠士の渋谷の自宅を訪ねている。この時詠士は日本の軍や官僚、政治家、右翼たちを激しくこきおろした後、「支那の何万何十万の無辜の民を殺し、幾多有為の日本青年の骨を中国の山河に晒して、いったい、なんの得るところがある。中野の馬鹿者にそう言っておけ。」と言って叱り飛ばし玄関先で追い返している。
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