満州での惨劇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/21 09:29 UTC 版)
1902年(明治35年)誕生。8歳で出家し、長野の善光寺、比叡山での修行、ホノルルでの延暦寺別院創設を経て、1937年(昭和12年)に阿智村の長岳寺の住職となり、ここで生涯の大半を過ごすこととなった。 1945年(昭和20年)、阿智村から満蒙開拓移民の一団「阿智郷開拓団」が送り込まれることになり、子供たちの教師役として、当時の国民学校の教員を兼職していた山本が指名された。山本は不安ながらも妻と2人の娘を連れ、教え子である国民学校の生徒たちを引率して満州へわたった。当初は1年のみの予定だったが、わずか3か月後、第二次世界大戦末期である同年8月のソ連軍の侵攻で状況が一変。決死の逃避行の末、山本は妻子と引き離されてシベリア抑留の身となった。 終戦から2年後の1947年(昭和22年)、帰国。郷里で家族との再会を楽しみにしていたものの、彼を待っていたものは家族ではなく、妻と娘2人の死、そして阿智郷開拓団の8割が日本に戻ることが叶わなかったとの報せだった。阿智郷開拓団の団員全215人のうち、帰国できた者は山本を含めわずか13人であり、山本の教え子たちの生存者は、当初の51人のうち6人にすぎないということだった。 悲しみの中、山本はせめて仲間たちの遺骨を拾うべく1964年(昭和39年)に訪中。当時の中国の国務院総理である周恩来は山本を歓迎したが、遺骨収集は認められなかった。これには、同年の中国の核実験を内閣総理大臣就任直後の佐藤栄作が批判し、さらに日本共産党の大会に参加を望んだ北京市長・彭真を日本側が入国拒否したことで、中国側から見れば日本の新内閣は中国を敵視しているも同然といった事情があった。
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