満州へ、そして終戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/25 14:14 UTC 版)
当時は「大学を出てはみたけれど」という時代、前田も就職先は見つからず、卒業後の4月からとりあえず母校京都帝大の医学部事務嘱託として医学部の小さな研究室の新築工事に携わり、製図、強度設計、工事監理などを行う。10月になり、藤井の紹介によりようやく長谷部・竹腰建築事務所(現日建設計)へ入所したが、それも束の間、年末に藤井に呼ばれて奉天市(現瀋陽市)の満州医科大学の衛生学教室へ行くことを強く勧められた。前田には意に染まぬ勧めであったが(前田『回顧あれこれ』)、当時の慣(なら)いとしては師の言うことは絶対で、前田もしぶしぶこの勧めに従い満州国へ赴くことを決意する。翌年1月の神戸から大連までの船中では船室に籠ってロマン・ローラン著『ジャン・クリストフ』を読みふけったが、「私はそのころの惨めな気持ちを、”ジャン・クリストフ”によって慰められ、勇気付けられたと思う」と回顧している(前田『敗戦の日までの記録』)。 1936年(昭和11年)1月、奉天に赴任。身分は日本政府の出先機関である関東局事務嘱託であったが、実際は満州医科大学の衛生学教室で、三浦運一(のちに京大医学部教授)のもとで日本人開拓民の住宅の衛生環境の研究に携わった。これは師藤井厚二が追及した「建築設計」と「建築衛生・環境」の二分野のうち後者を引き継ぐものであった。1937年(昭和12年)12月、身分は関東局から満州国民生部へ。1939年(昭和14年)7月、補充兵として教育応召を受け、入営、ノモンハンに送り込まれる。ノモンハンでは後方で医療品の発送を受け持つ。応召中の8月に身分は満州国民生部から満州国大陸科学院建築研究室に移ったが、ノモンハン事件の後始末に従事していたため新任地の新京(現長春市)に赴任したのは11月であった。新たな職場でも引き続き建築の熱や湿気や換気が研究テーマであったが、それまでの衛生学から建築設計に生かせる「建築環境工学」を目指すことになる(前田『敗戦の日までの記録』,『熱環境工学における私の歩み』)。ここで前田はそれまで測定を中心としていた環境学の中に数学と物理学を導入する。のちに前田が「建築に初めて数学を取り入れた」と評される所以である(建築構造学では数学を使っていたが)。ノモンハンには吉田洋一著『函数論』を持ち込んで召集解除までの暇つぶしに読んだというから、応召も前田にとっては勉強のよき機会であり、次の飛躍へのステップともなった。 1945年(昭和20年)8月、終戦。同時に満州国も消滅し、37歳の前田は身分と職場を失う。
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