満州事変から朝鮮総督へ
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1927年(昭和2年)に参謀次長に就任。同年、田中内閣の第二次東方会議に松井石根第二部長とともに出席。1929年(昭和4年)に朝鮮軍司令官に就くなど要職を歴任、1930年(昭和5年)には大将に進み、軍事参議官となる。1931年(昭和6年)4月に、宇垣の後任として第2次若槻内閣の陸軍大臣に就任。白川義則、金谷範三参謀総長と並ぶ穏健派として位置付けられ、彼らと連携して陸軍を制御できる人材として幣原喜重郎や安達謙蔵からも期待を寄せられていた。しかし軍政経験で見劣りしていた南は陸軍を統制できるだけのリーダーシップが十分とは言えず、宇垣にとっては急逝した畑英太郎の次善の策としか見なされていなかった。また、閣議で満州独立を唐突に表明したり、間島出兵を巡って国際連盟脱退などの強硬意見を主張するなど、立場の一貫性にも欠けていた。宇垣軍縮を巡っては、軍政改革による余剰資金の近代化財源への充当をめざし、国庫への戻し入れを主張する大蔵省と対立。就任後の同月27日、金谷参謀総長に軍縮の是非について意見を問うたところ、金谷は師団削減に否定的な態度を示した。拡大会議派らの主張していた対中兵器全面輸出解禁の是非に関しては、幣原と同じく東北軍および南京中央国民政府軍に限定する宇垣路線を継承した。また陸相在任中に部下の軍事課長であった永田鉄山が国家総動員法の策定に関わり出した。 同年9月に満州事変が勃発すると、国際協調主義を方針とする民政党政権の路線に金谷とともに寄り添いつつも、臨時参謀総長委任命令を巡っては政府が陸軍の大綱を押さえる事に反発し幣原とも対立したが、チチハル占領やハルビンへの出兵要請を退け、錦州への進出を押し留めることには成功した。十月事件発生時、荒木貞夫の反発を押し切り関係将校の保護検束に踏み切るも、事後処理を巡っては極刑を唱えていた白川義則ら長老の陸相人事への介入や反宇垣的姿勢に危機感を感じ、きわめて軽い処分ですませている。また、荒木らからの排斥を避けるため事態を隠忍した金谷の態度を「其儘主義」と見なし、これ以降、白川のみならず金谷とも亀裂が入った。加えてスティムソン談話事件で金谷が失脚すると、荒木ら皇道派自身への責任追及を恐れてか、関東軍への妥協的姿勢を強めるようになる。 12月の第2次若槻内閣の退陣で、陸軍大臣を退き、再び軍事参議官となる。南の他にも杉山元陸軍次官や二宮治重参謀次長、小磯国昭軍務局長、建川美次作戦部長といった不拡大路線の宇垣派は陸軍中央要職から排除され、反宇垣派・一夕会メンバーが占めるようになる。犬養内閣成立後の12月より、翌年1月まで満洲を視察。帰国後、昭和天皇に満州の近況を報告し、関東軍による満州の独立国化は既成事実であり、北満進出の容易化、日満共同経営による自給自足体制の確立、満州への移民による人口問題の解決などを上奏。しかしこの満州国独立論に危機感を感じた昭和天皇は犬養に政府としての意見を質し、反対意見を上奏させた。しかしその犬養も陸軍内部の一夕会系幕僚の推進運動や世論に突き上げられ、最終的には関東軍に引き摺られた。1934年(昭和9年)には関東軍司令官に就任する。 1936年(昭和11年)、第8代朝鮮総督になり内鮮一体化を唱え、 民族語の復活 朝鮮語教育の推進[要出典] 創氏改名 などの政策を行った。朝鮮人の中には抗議の意味を込めて「南太郎」と改名届を出した者もいたとされる[要出典]。南が朝鮮総督として君臨した6年間に朝鮮人の帝国臣民化政策は推進された(ただし、実際には政務総監の大野緑一郎に全て丸投げしていたとの評もある[要出典]。)。 後に枢密顧問官、貴族院議員、大日本政治会総裁(翼賛議会下の8割を占める衆議院院内会派)を歴任する。
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